立読みコーナー目次

WEB版 『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう) 回疎(えそ)訳(やく)』(仮立舎発行)は、書籍版と紙面構成が異なっていますが、文章に関しては、奥付表示の第2版と全く同じです。「不十分」な点が多くありますが、当時のままの文章表現をここに提出する事で、読者からのご批判等をいただければ幸いと存じます。(特に「機」については、考え方がまだアマイ)
 ご意見等は、 mail-adress 2ke7ri5u7sha@minos.ocn.ne.jp

の2ke7ri5u7shaから数字を削除して文字を寄せたアドレスでお送りください。大量のスパムメール対策のためです。

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WEB版
釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え
    仏説阿弥陀経 回疎訳      釈 功聴 私訳 
                        
仏説阿弥陀経 回疎訳   目次  
    回疎訳の前序       
     回疎訳難読語集
    本文   (科文毎)
    注記部         
    回疎訳の後序++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

仏説阿弥陀経 回疎訳の前舒              釈 功聴
                                         
 日本で、「多くの人々が聞いた経験のある仏教経典は、『般若心経』と『阿弥陀経』であろう」ということを、いつだったか聞いたことがあります。そのことが事実かどうかは知りませんが、「短いお経」で、リズム感や聞こえてくる言葉(音)の感じにおいて、印象的なお経と言えるようです。(私は、『阿弥陀経』を辛ろうじて知っている程度なのですが) いづれにしろ、多くの人びとには、聞いたことのあるお経としては、ポピュラーなのかもしれません。そうであったとしましても、「短いお経」だからといって、「内容がすぐわかるか?」となりますと、話は別でありましょう。

 正直申しまして、「内容がわからない」が、お経に対しての、私の実感です。そもそも、すぐわかろうとする私の態度が、傲慢であると言われてきました。しかし、そのように言われるのは、実に不本意でした。なぜなら、「内容がわからない」ということを、私自身がどのようなことであるかを、うまく伝えることができなかったからです。今、よくよく考えてみますと、私の「わからない」には、二重性があるのです。その差異は、明確に異なり、かつ重なっています。

 一つは、「現代の」「日本語」ではないということです。

 日本におきましては、お経といえば、中国語で書かれたものを「原典」としておりまして、その「原典」がそのまま伝統されているわけです。しかし、中国語の経典なら、まさしく日本語ではありません。例えば、「如是我聞」という言葉は、日本語でなく、中国語です。そして、その読み下し文の「かくのごとき、我聞きたまえき」は、現代の言葉ではありません。

 この「中国語の読み下し文」というのも、実にやっかいです。歴史的に日本は漢字文化圏に入るためか、現代日本において使用される頻度が小さい中国語の単語(日本の字体に直すこともありますが)の多くを、そのまま翻訳語として遣ってしまうということがあります。もっと粗っぽく言えば、「文字や単語の順序を組替えて、送りがなや振りがなを付ければ、翻訳の形になる」という特殊な関係が、「中国語の日本語訳」とする「読み下し文」にあります。これを英語−日本語で譬えてみますと、
  Thus it was heard by me. (M.Muller による「如是我聞」の英語訳)
は、次のようになるわけです。
  「me(みい)によって it (いっと)は Thus(だす)のごとく heard(はるど)されしき。」
といった、「読み下し文」になるわけで、単語を「文字どおりそのまま遣った」形で「翻訳」になるということです。こういうことが、「読み下し文」とされていることです。
  thus, it, is, hear, by, I,  如,是,我,聞,
のこれらの単語(文字・発音・スペル・変化)は、その言語を使う人たちの歴史・文化が含まれています。そもそも、単語の意味もわからないものが多いのです。それらの単語を日本語の構造の中に入れて「日本語的発音」にすれば、それで日本語となるわけではないでありましょう。しかし、中国語経典の日本語訳といわれるものは、概ねこのスタイルでして、「歴史的に伝統されていることである」とされます。いつの時代でもいいのですが、ある「言葉」が、その時代に多くの人々に感覚されなければ、それは「死せる言葉」、つまり、その時代に「感覚できない言葉」となるのではないでしょうか。

 ここで申し上げたいのは、経典類の「読み下し文」が、単語をも含めて「現代日本語」になっていないので、「現代日本語」しかわからない私には、経典には「何が書いてあるか」、一次的にもわからないということです。この一次的にもわからないということは、「現代日本語」で考えるしかない私には、「現代日本語」で書いてなければ、振りがな付きの経典を読めても、そこから先に進むことができない、ということです。つまり、
   「me(みい)によって it (いっと)は Thus(だす)のごとく heard(はるど)されしき。」
という日本語を、つまり、経典類について申せば「読み下し文」を、「活字を追う」という読み方ではすらすら(何分、振りがながついているのですから)読めても、意味を少しは感じながら、読みこなせる「教養」は、私にないということです。
 そのような意味で、一つ目の「わからない」があります。この「わからない」ということは、それでも傲慢なのでしょうか。中国語の学識はなく古文の素養もない、新聞・雑誌を普通に読める程度の日本語の能力(!)しかない私が、「現代日本語」で書かれたお経を読みたいと思うのが、傲慢なのでしょうか。

 もう一つは、「仏語(ぶつご)」です。
 言葉というのは、遣う人、聞く人の経験によって、同じ単語でも、意味が異なります。このことに異義のある人は少ないと思います。例えば、「楽」。
 私の経験からの「楽」の意味は次のようなものと言えます。
  五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)により、快さを感じる時。
(当然、それらの複合したことや、その経験が、快さを感じていくのですが)
 こういったことが、私には「楽」の概念としてあるといえます。
 しかし、「仏語」での「楽」は、このようなことを含みつつ、もっと深い経験による意味があるとされます。「されます」ですから、私にはよくわからないのです。推測してみますと、
  「存在の真理について、知識・教養を深めて自分で考えていく」
ということらしい。これはまあ、なんとなくわかるような気もします。よく、青春のほろ苦さとともに出始めるようでして、私にも記憶があり、今思い返せばこの「楽」も、「うん、そう言われれば「楽」なのかもしれないなあ」と思えるわけです。しかし、それを持続することは、とてもできません。思い出の彼方に置いてきてしまうわけです。
 最も深い「楽」に、
  「自分の固定概念が破られていく」、つまり「自己を発見し続けていく」
ということがあるそうです。これが「楽」であるとはわからない。わかりそうになると、わからないように引き戻される感じはあります。

 このように仏語は、私の経験以上の経験を、その言葉の意味としているのですから、すぐにわかろうとしても、わからないのが当然でありましょう。このことを、もう少し別な言い方をしてみますと、「仏眼」と「肉眼」の差異ということになります。
 「仏眼」において、つまり「目覚めた人」の経験から語られた言葉が「仏語」です。この「仏眼」から認識されてきた現実世界を、「浄土」とされるわけですが、私どもには、なかなか「浄土」ということがわかりません。なぜなら、私どもは「目覚めていない人」なのでして、そのような私どもは「肉眼」しかありませんので、その「肉眼」を通した意識、つまり、自分の経験ということですが、その意識による現実しか見えないわけです。現実世界といっても、「仏眼」と「肉眼」とでは、「目覚める」という経験が、あるかないかということで違ってくるわけでして、その差異は、どうにもならないほどの違いがあるわけです。
 そのどうにもならない差異の橋渡しをするのが、お経ということになります。「目覚めた人」の認識は、私どもにはわからない。しかし、何とかして、「目覚めていない人」が遣う言葉を用いて、「目覚めた人」がその認識の内容を伝えようとされた。それがお経です。ですからお経は、その内容が、なかなかわかりにくいわけです。
 私は、お経の「内容がわからない」とすることが、こういった意味でわからないことには不満はないのです。そのようなことは、私が知らない、経験していないだけで、聞いていけばわかるようになるかもしれません。また、いくら聞いてもわからないかもしれません。経験した人から、あるいは、経験した人からきいた経験のある人から、聞き続けていけば何となくでも、わかるようになるかもしれません。これは、あわてて知ろうとしても、わかるものではないでしょう。この点での「わからない」は、いくらでもありうることですし、そのことで「異義申立て」はありません。

 しかし、そのような概念の深みのある「仏語」が、中国語経典としての単語にありますゆえに、前に述べました「わからない」と重なるわけです。
 随分と、お経の「内容がわからない」ということを、くどくどと述べてきました。もう少し大胆に申しますと、
  「仏語が真実であるなら、あらゆる民族の言葉において表現できるはずだ」
という、私の思いがあります。日本でいえば、室町時代には「室町時代の言葉」で、昭和・平成時代には「昭和・平成時代の言葉」で、と。「仏語」が「真実」であれば、そのような翻訳が、可能なはずなのではないでしょうか。そのような、「時代の翻訳」が仏語を軽くしていくことにはならないはずです。よしんば軽くなったとしても、それは翻訳する人の力量の問題です。古文調にすれば、漢文調にすれば重くなるということではありますまい。中国語の経典の単語を安易に遣っている「現代語訳」とされているものも、はたして「現代語」になっているでしょうか。そのような「現代語訳」の訳者は、おそらく、仏語をそのまま遣える生活をしているのだと思えます。そうであっては、その訳者は既に、「釈尊と言語感覚が等しい人」ということになります。私ごときには、とてもおよび難いことです。

 さて、それではこの『回疎(えそ)訳』は、いったいどういうものか、これが問題になります。これは、中国語の『仏説阿弥陀経』の翻訳ではありません。翻訳ということは、翻訳される言語とする言語の言葉が対応するのが原則と言えましょう。そうなってはいないのですから、翻訳ではないのです。
 先ほどの、「仏眼」と「肉眼」の問題に関係するわけですが、「肉眼」(それも、いつも、うつらうつらとしている寝ぼけ眼)しかない私が、「「仏眼」から認識された現実を説かれたところの、中国語で表現された伝統ある『仏説阿弥陀経』」を、「どうも、こういうことを説いておられるらしいなあ」と思わされたことを綴っているのですから、翻訳になりようがないのです。
 しかし、概ねは、中国語の『仏説阿弥陀経』の次第に沿ってはいます。(経典に関心のある方のために、前出の『真宗聖典』(東本願寺版)による「科文」番号で「回疎訳」と対応しておきました) そして、「回疎訳」で遣っている言葉は、数語を除いてほぼ全文が「現代日本語」です。ですから、およそ新聞・雑誌の読解力で読むことはでき、一次的にはわかるはずです。
 で、内容は適切なのか、正しいのかどうか?といいますと、これは何とも言えません。この「回疎訳」は、「私には『仏説阿弥陀経』が、このように受けとれている」ということを表明しているに過ぎません。受けとり方に問題があるとは思います。しかし、問題があるかないかがわかるのも、言葉(ここの場合は文章)にしてみなければ、そして、それが批判されなければ明らかにならないのですから、お読みになった方に、批判して頂くしかありません。いくら、「私としては、(現段階では)こうだ!」と思ってはいても。    
(批判のポイントになりそうなところは、「注記番号」を付し、本文とは別に、
「注記部」を設けてありますので、そちらもご覧ください) 

 このような「回疎訳」などということをするのは、愚挙だと思われる方もいらっしゃるはずです。しかし、もし私が『仏説阿弥陀経』にはこのようなことが説かれていると、それを胸の内にしまいこんでいるなら、それは「独りよがりに終わる」というものでありましょう。まあ、「何を考えているのか、考えていないのかも、わからん」のと、全く同じです。問題があるかないか、どう問題があるか、それを明らかにするために、受けとったことを表明する、そのことが、門徒生活のあらたな出発であると思います。
 問題があるかないか、どう問題があるのかと、それを知ることは「勇気」の問題です。そんな「勇気」は、自分から湧いてくるものではなく、そのように表明されていった方々のすがたから、頂戴するしかありません。喜ばしいことに、気がついてみれば、そのような方々が沢山おられるのです。そして、「ともにまた」と思うわけです。
 うまくは申せないのですが、この「回疎訳」は、翻訳とは言えない代わりに、
  「頂いている、信」
を自分に明らかにしたつもりです。批判されることを含めて、です。かといって、『阿弥陀経』につきまして、私は集中的に聞いてきたということもありません。「ごく一部を、断片的に聞いたことがあるような気がする」という、実に、あてにならない学び方しかしていません。そうであるにもかかわらず、なぜ「私訳」することになったのかと申しますと、「阿弥陀仏の世界」即ち「阿弥陀仏の浄土」を、私自身に、はっきりとさせたいからです。ですから、文字どおりの「私訳」です。
 そもそも、経典の翻訳は、個人が自由に翻訳できるということではなかったようです。この中国語の『仏説阿弥陀経』は「奉詔訳」とありますように、三蔵法師鳩摩羅什は、中国の時の皇帝・姚興王の召しにより翻訳しています。「回疎訳」は「私訳」ですから、宗門の教学的にどうかという検討はなされていませんし、まして宗門の公認の「訳」でもありません。そればかりか、このような「私訳」は、経典を矮小化・歪曲化するものとして、非難されるものかもしれません。いや、矮小化・歪曲化している事実を、「回疎訳」について具体的に批判されるのであれば、それこそ実に、喜ばしいことと言えましょう。それよりも、このような「回疎訳」などという怪しげな「私訳」は、異端とされるまでもなく、宗門からは見えないものでありましょう。
 誤解・曲解数多くあろうとも、クネクネと、回りくどく、疎あらっぽくであろうとも、いま現在においては、私自身がこの『仏説阿弥陀経』から、生きていく上での勇気を頂いている事実を、自分のために明らかにしてまいります。

 とは申しますものの、この「回疎訳」における基本的態度は、あくまでも「このように聞こえてくる」ということです。今まで、少しばかりの時間を『観無量寿経』を聞くことに使ってきましたが、そこで聞こえてきたことを自分の経験として、この『阿弥陀経』も、「このように聞こえてくる」ということを、視点ならぬ「聞点」として「回疎訳」してみたいと思うわけです。
 したがいまして、「回疎訳」の「聞点」を、
   1.釈尊の覚りの内容は「南無阿弥陀仏」である、とする。
   2.宗祖親鸞の「現生不退」の精神(たましい)を根底に持つ。
   3.日常レベルの現代日本語で表現し、可能な限り仏教用語を使わない。
   4.これらを通して、「南無阿弥陀仏」を呪文から開放する。
とします。
 ウーム、それにしてもこの四つの看板は、何と大きなことか。目覚めではなく、私自身でも眩暈めまい がしそうな看板です。フッと息を吹きかけられただけで、バタバタバターァとたたみかけられ、その下敷きになって、訳者は絶命っていうような看板です。もともと、私ごとき者で、そんな簡単に決着をつけられるようなことじゃありません。私の生涯での時間で足らないのは当然のことですから、また誰かが発起した時にこの看板を担って下さればいいし、私が看板倒れ・下敷きになってもいいじゃないですか。まあ、看板の見出しだけでは、「どうにもならん。つまらん内容だ」という声も、出しようがありませんので、とりあえず「回疎訳」をしなければ始まらないということです。回疎(くねくね)と歩んでいきます。
 そうではあっても、願わくば批判する方々の現れんことを、と思う次第です。

 そして、まずは、『仏説阿弥陀経』を、

  釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え

と「回疎訳」します。

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『仏説阿弥陀経 回疎訳』 難読語集  *は人名
 仏説阿弥陀経 ぶっせつあみだきょう       回疎訳 えそやく     
 姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳 ようしん さんぞうほっし くまらじゅう ぶじょうやく
 *須達多 すだった  *目犍連 もっけんれん   *迦葉 かしょう 
 *迦旃延 かせんねん    *倶絺羅 くちら     *離婆多 りはだ  
 *周利槃陀伽 しゅりはんだか  *難陀 なんだ  *阿難陀 あなんだ
 *羅睺羅 らごら  *憍梵波提 きょうぼんはだい  *賓頭盧頗羅堕
 びんづるはらだ    *迦留陀夷 かるだい    *劫賓那 こうひんな      
 *薄拘羅 はっくら  *阿〓(少/免)楼駄 あどろうだ   摩訶 まか
 釈迦牟尼仏 しゃかむにぶつ  
                                                                                                                                                                                                                                     

 

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(中表紙)                                                                                 釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え 
     仏説阿弥陀経 回疎訳   真宗大谷派 釈 功聴 私訳 

                                                                                                                                                                                                                                                 
    底本は、『真宗聖典』(東本願寺出版部・第8版)による。
     1 科文番号は、『真宗聖典』により、(数字)で示す。
     2 「*数字」は、注記番号で、通し番号になっている。

 

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釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え
     仏説阿弥陀経 回疎訳   
                                                 
(1)
  仏説阿弥陀経     (原文)
     姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳
如是我聞。一時仏、在舎衛国 祇樹給孤独園、与大比丘衆 千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。衆所知識。長老舎利弗 摩訶目犍連 摩訶迦葉 摩訶迦旃延 摩訶倶絺羅 離婆多 周利槃陀伽 難陀 阿難陀 羅睺羅 驕梵波提 賓頭盧頗羅堕迦留陀夷 摩訶劫賓那 薄拘羅 阿〓(少/兔)樓駄 如是等 諸大弟子、並諸菩薩摩訶薩文殊師利法王子 阿逸多菩薩 乾陀訶提菩薩 常精進菩薩、与如是等 諸大菩薩、及釈提桓因等 無量諸天 大衆倶。
(1)
 『仏説阿弥陀経』 姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳             *1
  という中国語で書かれた仏教の経典があります。
 この回疎訳は、『仏説阿弥陀経』で説かれている釈尊の教えを、 
   「現実を生きる願の世界」
として、聞きとっていることを明らかにしたものです。

私が聞きとった内容というのは、このようでありまして、            
  時は、正に「現実を生きる願の世界」の教えが説かれる時でした。    *2
  説かれるべき教えが釈尊によって説かれる、              *3 
 釈尊以外では説かれることがない教えが説かれる、その時です。
釈尊は、
 王宮の中、市街、淋しい人里、人の集まる広場、
 教えを説かれるための建物など、どのような場所であっても、
 そして、人数の多少、
 高貴とされる人、卑しいとされる人、人とも思われていない人、
 政治家、商売を仕事にする人、学問に励む人、無職の人、
 お金持ち、貧乏人、
 日常の生活に勤しむ人、主婦、若者、老人、
 落ち込んでいる人など、どのような人たちであっても、
 教えを請う人が現れれば、その人の現実を尊重し、
 その人のために、教えを説かれるのです。
 それは、季節、時刻、天候にかかわりありません。

しかし、この「現実を生きる願の世界」の教えが説かれたのは、       *4
 かけがえのない時でした。
 なぜなら、そこには教えを請う人がいなかった、
しかし、釈尊はこの教えを説かれたという、特別な時なのです。
しかもこの教えは、釈尊の説かれた全ての教えの、
 その底に流れているところの、
 釈尊が「目覚めた人」とされる根本の精神たましいが説かれているのです。
そういった意味でも、特別な時なのです。

そして、説かれた場所は、釈尊の教えを受けとって、
 慈善という行為をしていくことを、自分の生きることの意義とした
  須達多という大富豪が所有している、
  釈尊の滞在中の寝食と説法の場であり、
  独り身になった老人や孤児のための施設でもありました。
この教えを聞いておりましたのは、
 一二五〇人もの、釈尊の弟子であるところの、困った人たちです。      *5
 それは、経済的に力がないとか、能力が低い、
 経験が乏しい、身分が低いなどという意味ではありません。
釈尊から見れば、困った人達には三つの意味があります。
 一つは、自分の経験を意味あるものとしてその裏付けを求めるために、
  釈尊の教えを聞こうとするし、伝えようとすることです。
 二つは、釈尊の教えを正確に聞いているのだから、
  彼ら自身の努力で必ず人生の意義を悟ることができると、
  彼ら自身で確信している、ということです。
 三つは、現実を生きるということがどのようなことであるかを、
  目的と行為によって価値付けてしまうということです。
 つまりは、釈尊の教えを、
 「理想の人間になるために、しなければならない方法の教え」としてしか   *6   
 聞いていないのです。

そうではあっても、多くの人々は彼らを、
 「釈尊の教えを聞くことによって、
 理想の人間になっていく道を見出そうとしている人々」として、
 尊敬してもいました。
 そのことは、

 「理想の人間」を目指す人が、多くいるということでもあります。

具体的に何人かの名前を挙げますなら、舎利弗を始めとして、         *7
 目犍連、迦葉、迦旃延、倶絺羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難陀、
 羅睺羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、劫賓那、薄拘羅、阿〓(少/兔)楼駄
 といった錚々たる面々、
 釈尊の教えを聞くことにかけては、大弟子を自認する人々です。
そして、彼らの教えを聞く相すがた の中に、
 いきいきと生きたいという人間の根本の意欲を、
 強く感じさせるのも事実です。
 その彼らの意欲は、
 彼ら自身で意識できているわけではないのですが、            *8
  釈尊が目覚めることを求めた時の精神たましいと同質のものがあると、
  その精神を継ぐものがあると、
  その精神を持たもとうとするものがあると、
  自己の現実の中でその精神を深めようとしているものがあると、
 当人たちの思いを超えて、多くの人々が、
 無意識のうちにそのような相すがた として受けとっていました。
そのような相すがた を見せつつも、
 生ま身の人間であるにもかかわらず、
 彼等の一人ひとりが「理想の人間」を目指すがゆえに、           *9
 同時に、
  感情に感じる快楽を求めること・
  自己表現に愉楽を求めること・
  真理の究明に悦楽を求めることなどの、
 諸楽を求める人間の相すがた をも、彼らは感じさせるのです。
そのことは、
 釈尊の弟子である限りは「自分も悟りを得たい」と、
 どれほど彼ら自身を期待し、そして自負していても、
 次から次へと沸き出てくる欲望があり、
 現実と隔絶することができない身であるという事実を
                  示すことでもありましょう。
それはまた、
 私どもの「自分で悟ることはできない凡夫の身」である事実が、
 これから釈尊によって説かれることの序章を、
 彼らの名によって示してあることでもあります。

(2)
爾時仏告 長老舎利弗、従是西方、過十万億仏土、有世界、名曰極楽。其土有仏、号阿弥陀。今現在説法。
(2)
広い説法所、講堂とでも申しましょうか、そこに集まっていた人たちは、   *10
 「今日は、誰が釈尊に教えを請うのだろうか、
  どのようなことが説かれるのであろうか」と、
 釈尊のご入場を静かに待っています。
 普段であれば、おおよそは、
 誰がどのようなことで教えを請うかというのは、
 何となく伝わってくるのですが、
 この日はどうしたことか、そういったことが何も伝わっていません。
 そういう意味での期待と緊張感が、
 その静けさの中に満ちていました。
釈尊のご入場の、その時になりました。
 舎利弗は、いつもどおりの釈尊のお姿に、安堵しました。
 釈尊は、会場の人々をゆっくりと見渡してから、
 合掌され、静かに着座されました。
 そして、再び
 会場の人々の顔を確認されているかのようにご覧になります。
 その視線が舎利弗にきました時に、少し笑みをもらされたようです。
「舎利弗」
 と、釈尊は呼びかけられました。
 舎利弗は緊張します。
 教えが説かれるその時に、このような始まり方は、
 未だかつてなかったからです。
 舎利弗は、返事と同時に衣装を整えて、
 右足を膝立てて合掌して、釈尊に向かいます。

「舎利弗よ。
 今日は、舎利弗をあらゆる人々を代表する者として、
 大切な教えを説くことにする。
 今日まで、誰かが、
 「ある問い」を問うてくることを待っていたのだが、
 誰もいなかった。
それは、
 私が「目覚めた人」とされる根本は何であるかということである。
 このことは、私・如来として、
 どうしても説いておかなければならないことなのだ。
舎利弗よ。
 今まで聞いてきた経験にとらわれることなく、
 初めて聞くこととして、聞きとりなさい。
 私の、智慧第一の弟子と人々から言われ、
 そのように自認しているようであるが、それゆえに、
 今日の如来の説くことは、とても聞こえてこないはずだ。
 この、「聞こえてこない」ということが、舎利弗よ、
 あなたがあらゆる人々を代表しているということなのである。
舎利弗よ。
 あなたが今、この席にいるということは、
 生涯の意義を見出したいがためである。
 真にいきいきと生きる世界を求めているということである。
あなたには、
 あなた自身が何者であるかわからなくなった、
 生きることの意義が見えなくなった、
 こんな一生を過ごすのはいやだ、
 こんな現実世界には住みたくないという経験があったはずだ。
だからこそ今、この席にいるのである。
 単に、知識や教養や名声を求めて、この席にいるのではあるまい。
そのように現実を拒否し始めている時は、
 いったい、どういうことが生き甲斐なのか、
 いきいきと生きるということがどういうことなのかが、
 全くわからないのだ。
 はつらつと生きてゆく世界なんて、
 どのように考えても見出せないのである。
 はるか彼方の、遠い世界にあると思えるかもしれないが、          *11
 とてもあなたに具体的に考えつく世界ではない。
だが、その世界は、事実として近くに在る。
 生きることの意義を求め続けた・
          求め続けている・
          求め続けるようになるあらゆる人々の、
 心の底に流れている「現実を生きる願の世界」がそうなのだ。
かの世界では、
 自分では思いもしなかったかたちで、
 自分自身の生きることの意義が知らされて、
 明らかになってくる。
そのように人生の意義が明らかになってくることが、
 人間にとって何ものにも代えがたい真実の喜びなのだが、
 人間は、
 そうであることになかなか気がつかない。
それはまさに、人間の究極の楽しみなのであり、
 そこに人生の真実があるのだ。
この喜びは、
 自己の経験や価値判断に固執する限りは受けとれぬことである。
あなたは、自分の経験から、
 そのような他から「知らされる」ことによって、
 人間の究極の喜びや楽しみがあるなどと、
 とても考えられないかもしれない。
 第一に、「知らされる」とは、
 どのようなことかも想像がつかないはずだ。
しかし、かの世界は実在し続けているのであり、
 「究極の楽しみの有る世界」と名づけられている。            *12
そういう世界が、私どもに、
 人生の発見の喜びに目覚めさせる。
その目覚めさせるはたらきは、
 「現実を生きる願」のはたらきとして、
 かの世界の方々を通して、持たもたれてきたのだ。
そのはたらきは、
 今も、私どもに、
 現実を生きることを、そして、
 生きていることの事実に目覚めることを、
 促し続けているのである。
 私どもが、
 そのはたらきに気づくことがなかろうが。

(3)
舎利弗、彼土何故 名為極楽。其国衆生、無有衆苦、但受諸楽、故名極楽。                                 
(3)
舎利弗よ。

なぜ、かの世界が「究極の楽しみの有る世界」と              *13
 名づけられているが、わかるだろうか。」
 舎利弗にしてみますと、その答えはわかりきっています。
 「その世界にいる人々は、いろいろな苦悩を滅しており、
 それゆえに、多くの楽のみを受けとることができるから」と。
 これは、今までに聞いてきたことから、確かにそのような世界であると、 舎利弗には確信できます。
 しかし、あらためて釈尊から問われますと、
 そのように申していいのかと戸惑い、押し黙っています。

「舎利弗よ。
かの世界に生きる方々は、
 苦悩がないわけではない。
 まして自分の思いがすべて通ってしまうということでもない。
 他の人々から見えるかの方々の生活の有り様は、
 逆に、苦悩の現実そのものと言っていいであろう。
 ただ、かの世界に生きる方々は、
 いろいろな苦悩そのものに苦悩することはないのだ。
それらの時と環境で示される一切の厳しい現実は、
 自分の固定概念が破られてゆく、
 自分の生きていくことの意義が明らかになってくる、
 かけがえのないきっかけとなっているのである。
それゆえに、一切の現実が、かの方々においては、
 「楽」としか言い様がなくなってくるのだ。
したがって、
「究極の楽しみの有る世界」と名づけらているのである。

 

(4)
又舎利弗、極楽国土、七重欄楯 七重羅網、七重行樹。皆是四宝、周帀囲繞。是故彼国、名曰極楽。
(4)
また舎利弗よ。
「究極の楽しみの有る世界」といっても、
 私どもの日頃の心で見るその相すがた は、
 「自分を守る」人々の生き方の中から現れるのである。           *14
幾重にも重なっている窓飾り、
   それを通して他者を見る。
幾重にも重なっているカーテン、
   他者からは自分が見られるのを防いでいる。
幾重にも重なっている背の高い垣根、
   他者が自分に近づいてくるのを防いでいる。
私たちは人生のあらゆる場面で、
 そのような何重もの窓飾りやカーテンや垣根をもって、
 自分を守ろうとするのだ。
それは、
 自己の経験や価値観を至上のものとして、
 他者から侵されることなく、
 そして、それをもって他者を判断する。
 そのような自分の経験や価値観でもって、
 自分の思うような人生を過ごせれば、
 それが、その人の思い描く「楽な世界」となっていくのだ。
 そのような世界を求めるのが、
 日頃の心である。
だが、
 一人ひとりの人がそのような心を持っているのであるから、
 現実世界は、
 矛盾、葛藤、軋轢、不満、絶望、差別、抑圧が
                  渦巻いているということになる。
 人々の思い求める「楽な世界」が、
 それゆえに苦悩の世界を導き出す。
そのように厳しい現実が、
 自分の思いを破り、
 自分の生きていくことの意義を明らかにするきっかけとなるのである。
かの世界は、
 この現実を抜きにしては在りえない。
 しかし、
 だからといってこの現実世界がそのままで、
 かの世界であるということでもない。
そして、
 その苦悩の本もとを見据えることによって、
 かの世界が開けてくる。
その、見据えることを促すのは、
「現実を生きる願」のはたらきなのである。
このような世界こそが、
 「究極の楽しみの有る世界」といわれる所以なのだ。

(5)
又舎利弗、極楽国土、有七宝池。八功徳水 充満其中。池底純以 金沙布地。四辺階道、金銀瑠璃 玻璃合成。上有楼閣、亦以金銀瑠璃 玻璃硨磲 赤珠碼碯、而厳飾之。池中蓮華、大如車輪。青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光。微妙香潔。舎利弗、極楽国土、成就如是 功徳荘厳。
(5)
また舎利弗よ。
「究極の楽しみの有る世界」が見出されるのは、
 現実世界を抜きにしては有り得ないのだが、
 その現実世界では、人々の飽くなき欲望の実現を目標とする社会が、
 人々によって作られていく。
しかし、その社会もよくよく見れば、
 共同して充実感を得ることよりも、
 渦巻く権謀・熾烈な内外に対する闘い・苦渋に満ちた決定・
 乏しく偏った情報・しのぎを削る人間関係などの苦悩があり、
 社会がかたちづくられることによって、
 逆に不充足感が蓄積されていくようになる。
なぜなら、
 人間が維持しようとするそのような組織は、
 他者を自分の思いのままにしたいという権力構造を、
 その根底に必ず具えているからだ。
そうではあっても、組織ということ自体に、
 どうしても人は誘われてしまう。
自分の欲望を実現してくれそうな組織には、
 その道のりへの、
 自分の能力に合った安易な努力と願望だけで、
 人はすんなりと参加していってしまうのだ。
 そういった組織が人々に見せる相すがた とは、
 成功であり、収入であり、組織力であり、
 その組織を選ぶことの正しさなのだ。
 そのような組織をもって、
 たとえ今の自分の現実とはかけ離れていても、
 そこに自分の可能性を認めたいのである。
その組織は、成果をその内外に対して誇示する。
 しかし、その成果の正体は、
 権力、財力、自の組織の優越性、目標達成への力、
 欲望達成の可能性、そして自らの組織の繁栄である。
 それらをもって、自らの名声を高めようとしているのだ。
その誇示ということ自体が、
 何物が蠢いているかもわからない現実社会において、
 「欲望の華」となるのだ。
 その大きさたるや、
 その社会の一人ひとりが自分で意識できる欲望の大きさを、        *15
 はるかに上回るものなのである。
一つの民族は、
 その民族によって社会を構成していこうとする。
一つの組織は、
 その組織体自身の力を、永久化しようととする。
一つの学問は、
 それ自体を細分化してより完全さを目指そうとする。
一つの思想は、
 自らの価値付けをし、その思想の普遍性を主張する。
このようなことは、現実社会では、
 「正当性あること」とされるのが普通だ。
そのような社会が複雑に絡み合うこの現実世界では、
 個人であれ組織であれ、 
 「欲望の華」を咲かせることを、
 個性の発揮と言っているのである。
舎利弗よ。
 一見すると、現実世界は、
      人間の能力を伸ばし、
      可能性を実現し、
      人の個性が社会の中で価値付けられ、
      生きていることの充実感を得られ、
      進歩・発展している、と思える。
 しかし、事実は、
 このような現実世界に苦悩を感じているのがわが身なのだ。
 そのわが身に目覚めることを促し続けているのが、
 「現実を生きる願」なのである。
 その願からしてみれば、
 「苦悩の現実こそが、
 人々が日頃の心を翻ひるがえす、大きなきっかけとなるのだ」、と。
だからこそ、舎利弗よ。
   苦悩の現実を拒否してはならない。                 *16
   苦悩の現実を抱えているわが身であればこそ、
   わが身の生涯の意義が明らかになってゆくことが
   「究極の楽しみの有る世界」において可能となるのである。
   この厭いとうべき現実世界こそが、
   「究極の楽しみの有る世界」への門であると、
   かの世界に生きる方々は持たもってこられたのだ。

(6)
又舎利弗、彼仏国土、常作天楽。黄金為地。昼夜六時、而雨曼陀羅華。其国衆生、常以清旦、各以衣裓、盛衆妙華、供養他方 十万億仏。即以食時、還到本国、飯食経行。舎利弗、極楽国土、成就如是 功徳荘厳。
(6)
また舎利弗よ。
この現実社会は、集団であれ個人であれ、
 自己の理想を達成することに最高の価値を与え、
 その達成をもって「楽しいこと」と表す。
 そして、自己実現の結果を公表することが、
 「善いこと」とすらされる。
この現実世界の人々は、
 自分の打ち立てた目標が、適切かつ正しいことであることを信じ、
 この世界の成功者を尊敬し、
 自分も大過なく成功したいと思っている。
そのような志をもってはいても、この現実においては、
 次々に人は難問と苦悩を抱えざるを得ず、
 かろうじて、
 食事の時くらいしか落ち着いて考えることがないその時に、
 いったい何のために生きているのだろうかと、
 自身の生への疑問が起こってくることがある。
自己実現や理想の達成、
 すなわち価値ある人生への道と思っているこの現実世界が、
 逆に、
 その人をうち塞いでいくのだ。
だが、舎利弗よ。
   そのような苦悩の現実を拒否してはならない。
   苦悩の現実を抱えているわが身であればこそ、
   わが身の生涯の意義が明らかになってゆくことが、
   「究極の楽しみの有る世界」において可能となるのである。
   この厭いとうべき現実世界こそが、
   「究極の楽しみの有る世界」への門であると、
   かの世界に生きる方々は持たもってこられたのだ。

(7)
復次舎利弗、彼国常有 種種奇妙 雑色之鳥。白鵠孔雀 鸚鵡舎利 迦陵頻伽 共命之鳥。是諸衆鳥、昼夜六時 出和雅音。其音演暢 五根五力 七菩提分 八聖道分 如是等法。其土衆生、聞是音已、皆悉念仏念法念僧。舎利弗、汝勿謂此鳥実是罪報所生。所以者何。彼仏国土、無三悪趣。舎利弗、其仏国土、尚無三悪道之名。何況有実 是諸衆鳥。皆是阿弥陀仏、欲令法音宣流、変化所作。舎利弗、彼仏国土、微風吹動 諸宝行樹 及宝羅網、出微妙音。譬如百千種楽 同時倶作。聞是音者、皆自然生 念仏念法念僧之心。舎利弗、其仏国土、成就如是 功徳荘厳。
(7)
また次に舎利弗よ。
 この現実世界には、さまざまな自己主張がある。
 それらは、自分の存在を現実社会において、
 認めさせたい、認められたいとするものである。
そのようなことに「楽しさ」を求めているのが、人間の相(すがた) である。
 背伸びして自分を大きく見せ、他者から注目されやすくする。
 着飾ることにより、自分を尊大に見せようとする。
 物まねをしていながら、あたかも自分の独自性のように振る舞う。
 常に二股をかけ、その時の自分に都合のいいような立場を選ぶ。
 理想論を振りかざす。
 場所が違えば、矛盾したことも自分の持論として平気で披露する。
こういう自己主張が、
 この現実世界では否応なく、
 時と処にかかわらず聞こえてくるのだ。
そこで表現されていることには、
 善い行為、
 善い行為をするための考え方、
 生きていることの意義を考えること、
 いきいきと生きることなどを、
 全て、自分の都合に合わせて受けとって、
 自分の主張の根拠として、
 自分の打ち立てた目標の達成のための、道具としているのである。
そして、他者のそのような相すがた を通して、
 逆に、自分の欲望の正当性を作り上げて、
 「我も勝利せん、 
  我も勝利の方法を得ん、
  我も勝利者の仲間に入らん」
 と思っているのである。
舎利弗よ。
あなたは、こういう人々の相すがた を見てどう思うのか。」

 舎利弗にしてみれば、その答えは簡単でした。
 「心を清らかにする訓練をして、そのような心を滅していくことでしか、善い人間にはなれません。そういうことが、釈尊の教えです。
 私は、その言葉どおりに学び、善き人間になろうと思っています。
 ですから、私は今、ここにいるのです。」
 と答えようとしたのですが、
 そのように言い切るには何か戸惑いがあり、黙ってしまいました。

「舎利弗よ。
あなたは、このような自己主張をする人を見て、
 「自分が良くなることを貪っている」
 などの評価や観察をして、それにこだわってはならない。
なぜなら、
 あらゆる人々が「善いこと」として行ってきたのは、
 実に、
 「他者を拒否すること」                        *17 
 「競争すること」
 「物事の根本を問わないこと」
 なのである。
 この人間世界で「善」とか「真実」とされているのは、
 「その「善」・「真実」を意識する、その人にとって都合の良い」
 という限定があるのだ。
 すべての人々が、
 自分の経験・価値判断に縛られているのである。
 このことが、人間世界の事実であるから、
 他者の行為や考え方を非難して、
 特定の人のみを「悪人」と名指すことの普遍的な根拠を、
 どのような人がもつことができようか。
それゆえ、かの世界では、
 「他者の拒否・競争・物事の根本を問わない」という
    あらゆる人間の現実が、
 「悪の現実」として名指しで
    否定・排除されることはないのだ。
即ち、
 人々が言うところの「悪の現実」があるがゆえに、
 かの世界が開かれてくるからである。
舎利弗よ。
厳しい、苦悩の現実の中から絞り出されるようなうめき声として、
 微かな、「現実を生きる願」の声を聞き取ってこられた、
 数多くの方々がある。
 だめな人間世界だとして、
 現実を切捨て、拒否してはならないのだ。
 この苦悩の現実を拒否したのでは、
 わが身の立脚地を見失うことになるのがわかるだろうか。
 そのように現実を拒否するのは、
 生きてきた中での経験を自ら放棄し、
 内にある「現実を生きる願」を、閉じ込め、
 いのちを私物化してしまうのである。
 苦悩の現実を通して、いのちそのものが、
 逆に、いきいきと現実を生きることを促しているのである。
舎利弗よ。
この人間社会では、
 ほんのちょっとした刺激が、思わぬ波紋を繰り広げる。
何物にも替えがたいと思っている、
 幾重にも重ねた自分の経験や価値観。
 そこに安住することが、
 自分の全うすべき生であるとかたくなに思い込んでいても、
 自分に届いた波紋から、
 ふと、自分の生き方に孤独の恐怖を感じることがある時、
 その時こそが、
 いきいきと現実を生きるいのちを歩むきっかけとなるのだ。
そのことは、
 その人の内からの、いのちそのものの「現実を生きる願」が、
 声を喚(あげ)ている時なのである。
その声が聞こえてくれば、                        *18
 「現実を生きる願」に促された方々・
           かの方々の生き方・
          かの方々のおられる世界が、
 その人の心の中で、ようやく問題となってきているということである。
舎利弗よ。
   そのような苦悩の現実を拒否してはならない。
   苦悩の現実を抱えているわが身であればこそ、
   わが身の生涯の意義が明らかになってゆくことが
   「究極の楽しみの有る世界」において可能となるのである。
   この厭いとうべき現実世界こそが、
   「究極の楽しみの有る世界」への門であると、
   かの世界に生きる方々は持ってこられたのだ。

(8)
舎利弗、於汝意云何。彼仏何故 号阿弥陀。舎利弗、彼仏光明無量、照十方国、無所障碍、是故号為阿弥陀。又舎利弗、彼仏寿命 及其人民、無量無辺 阿僧祇劫、故名阿弥陀。舎利弗、阿弥陀仏、成仏已来、於今十劫。
(8)
舎利弗よ。
あなたはどのように受けとったのだろうか。
私どもに、生きている現実に目覚めさせることが、
 なぜ「現実を生きる願」のはたらきといわれるのか、ということを。」

舎利弗は、もはや混乱しています。
 「今日まで釈尊のお説きになることを、
 私自身としては、確実に聞いている自信があった。
 だが、いま釈尊の説かれていることは、そのような自信を粉砕していく。 私の聞いてきたことは、いったい何だったのだろう」と。
 舎利弗は、沈黙し、頭を垂れます。

「舎利弗よ。
生きている現実に目覚めさせるはたらきは、
 苦悩の現実、
 自分自身がどう生きていけばいいのか
       わからなくなっているその現実を生き抜く、
 「智慧」と「勇気」を、
 私どもに涌き起こすのだ。
そのはたらきを受ける私どもには、何らの資格もいらない。
 家柄、身分、貧富、美醜、賢愚、老若男女など、
 そして、どのような民族、国家、組織など、
 人間社会で行われるあらゆる区分を超えて、
 「現実を生きる願」は、私どもに、
 自身の現実に目覚めさせるように、
 はたらき続けているのである。
また舎利弗よ。
そのはたらきは、人間が始まって以来はたらいており、
 そのはたらきを受けた方々も数え切れない。
そのような方々の生きておられる相(すがた)を通して、
 そのはたらきは顕れ、
 現実を生きるということがどのようなことであるかを、
 私どもは受けとることができるのである。
即ち、そのはたらきは、
 人に顕れて、
 その顕れている相すがた を受けとった人のうえに顕れる。
 人から人へと伝わって今に至り、
 これからも、人を通して、人から人へと伝わって、
 私どもに、現実を生きるということを促し続けているのだ。
だからこそ、そのはたらきを、
 「現実を生きる願」として、
 かの方々が持たもってこられたのである。
舎利弗よ。
 「現実を生きる願」のはたらきに促されて、
 そのような生き方を顕している方々を見出した時にこそ、
 自己まで続いているいのちの、
 歴史を知るということになるのである。
厳しく説くなら、
 「現実を生きる願」のはたらきに促されて
   苦悩の現実を生き抜いてこられた方々を、見出せない、
 あるいは、
  自分の思いや経験によってそのような方々を、排除・拒否していく、
 のであるならば、
 いきいきと現実を生きるということを、
 私どもには、一生涯を費やしても受けとれないのである。

(9)
又舎利弗、彼仏有無量無辺 声聞弟子、皆阿羅漢。非是算数 之所能知。諸菩薩衆、亦復如是。舎利弗、彼仏国土、成就如是 功徳荘厳。
又舎利弗、極楽国土 衆生生者、皆是阿鞞跋致。其中多有 一生補処、其数甚多。非是算数 所能知之。但可以無量無辺 阿僧祇劫説。 
(9)
また舎利弗よ。                             *19
しかし、私たちは、
 そのような方々の生き方を聞き知ったとしても、
 何とかして、自分の経験・能力・才覚をそのまま生かして、
 「自分の生き甲斐」「自分の人生の意味」を自分で見出そうとし、
 また、見出せると確信の上に、
 いよいよ、かの方々の生き方を学ぼうとする。
このような人々は、
 自らの「人間の完成」に希望をもつ者であるが、
 それは同時に、
 自己の経験・能力・才覚を尽くそうする者でもあり、
 日頃の心を励ます人でもある。
 これが、生きている現実に目覚めさせるはたらきを受けた人の、
 自分で意識できる「現実を生きる自分」の姿である。
 そして、このような生き方は、
 人間が始まって以来の、
 人間に考えられる最善の姿であると受けとられてきている。
したがって、そのように生きた人々の数は、
 とても数え切ることはできない。
だからこそであるが、
 かの方々の生き方を聞き知った上であっても、
 いや、それゆえに、
 自己の経験・能力・才覚をもとに
 「欲望の華」を咲かせようとして、
 他の人々に不可避的な困難な現実をもたらすことも、数多い。
その困難を、
 「現実を生きる願」に促されて、
 自分の生涯の意義が明らかとなるきっかけとされた方々も、
 事実として、
 これまた非常に数多くおられるのだ。
舎利弗よ。
   苦悩の現実を拒否してはならない。
   苦悩の現実を抱えているわが身なればこそ、
   その人の生涯の意義が明らかになってゆくことが
   「究極の楽しみの有る世界」において可能となるのである。
   この厭いとうべき現実世界こそが、
   「究極の楽しみの有る世界」への門であると、
   かの世界に生きる方々は持たもってこられたのだ。
また舎利弗よ。
「究極の楽しみの有る世界」に生きる多くの方々は、
 自己の経験・能力・才覚を尽くすことをも、大切にする人である。
 そうではあっても、それが末通らない時に、
 その事実を受けとれる人たちなのだ。
その方々は、
 苦悩多い現実の中で
 「かの方々のように、この現実を抱えていくしかない」と、
 このことを自信として、一生涯の道を決定される方が、
 これまた数え切れないほど多い。
そのような方々の数を敢えて譬えるなら、
 人間が始まって以来今日に至るまで、
 「かの方々のように、この現実を抱えていくしかない」という、
 生き方が伝統されている事実を、
 あらゆる人間社会において、
 私どもに見出せるということをもって、
 その数の大きさを示すことができる。

(10)
舎利弗、衆生聞者、応当発願 願生彼国。所以者何。得与如是 諸上善人 倶会一処。
(10)
あらゆる人々を代表する、舎利弗よ。
苦悩の現実に自分の生きてゆく道を見失っている人々は、
 「現実を生きる願」のはたらきの教えを聞いて、
 その苦悩の現実を、
 「わが身の現実として、抱えて往かん」と願いなさい。
そのように願うことは、
 「現実を生きる願」に促されて生きてこられた方々を見出す道が、
 開けてくることなのだ。
もっと積極的に言うなら、
 そのことから、
 どのような生き方をしている人に対してでも、
 即ち、
 「あらゆる人々を、
     いきいきと現実を生きたいと願っている人々」
 として見出すことが、
 あなた自身に始まってくるのである。
あなたにそのような生き方を促すこと自体が、
 いのちそのものの「現実を生きる願」のはたらきなのである。

(11)
舎利弗、不可以少善根 福徳因縁 得生彼国。
舎利弗、若有善男子善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不乱、
(11)
舎利弗よ。
自分で自分の行為を「善いこと」と規定して、それに励み、
 そのことをもって、自分の生涯の目的と意義を決定し、
 自分を価値付けることに固執している限りは、
 「究極の楽しみの有る世界」に、生きることはできないのである。
 どれほど自分に満足していても、
 真実にいきいきと生きることには、ならないのだ。
しかし、如来は、
 そのような生き方をする人々、
 それは、あらゆる人々が事実としてそうなのだが、
 そのことをもって、
 「ダメな人間」として否定・非難しているのではない。
舎利弗よ。
もし、自らを「善い生き方」と価値付ける男であれ女であれ、
 その人自身に、自分の思い、
        不純な動機、
        苦し紛れからの解決期待などが、
 初めにあったとしても、
   「現実を生きる願に促されたかの方々と、
      ともにまた、生きて往かん」
 と、生きてゆく世界のあることを知り、
 その世界に生きることを、ひたすら願うのであるならば、
 もはや自分の思いを超えて、
 「現実を生きる願」のはたらきが、
 その人を通して動き始めているのである。

(12)
其人臨命終時、阿弥陀仏、与諸聖衆、現在其前。是人終時、心不顛倒、即得往生 阿弥陀仏 極楽国土。
(12)                    
その人は、
 今までの自分の生き方が破られ、
 自分の経験・能力・才覚を頼りにできないことが
   あからさまになるその時であればこそ、
 「現実を生きる願」のはたらきを顕している方々が想い起こされて、
    「現実を生きる願に促されたかの方々と、
       ともにまた、生きて往かん」
 という言葉が、
 その人にとって真実の言葉として、響いてくるのである。
この人であるならば、
 自分の価値観で維持してきた「自己」というものが、
 跡形もなく崩れ去るその時であってさえも、
 うろたえることはない。
なぜなら、
 かの方々のおられる事実を想うことによって、
 また、
 その身の現実が、
 自己の生涯を明らかにするきっかけとなることとして、
 真実に現実を生きる世界に、
 帰って往くことができるという確信を、
 頂くことができるからである。

(13)
舎利弗、我見是利 故説此言。若有衆生聞是説者、応当発願 生彼国土。
(13)
舎利弗よ。
人間社会の、欲望と苦悩の多いこの身が、
 それは、欲望や苦悩を滅することが根源的に不可能な、
 そして、
 自身の力で人生の意義を知ることのできない、正に凡夫の身であるが、
 その凡夫が、
 真実の「現実を生きる願」を顕す、尊い身であることを、
 人類の歴史から、
 如来が見出したからこそ、このように説いているのである。
もし、生きる道を見失っている人で、
 この教えを聞いたならば、
 まづ、
 自分の経験・能力・才覚にこだわるという自分の思いを差し置いて
  「「その現実を、わが身の現実として抱えて往かん」と
     生きてこられた方々を、見出したい」という願いを、
 発(おこ)し持(たも)ちなさい。
 そのことが、
 かの方々の「究極の楽しみの有る世界」で、
 ともに生きることの、始まりなのである。

(14)
舎利弗、如我今者 讃嘆阿弥陀仏 不可思議功徳、
(14)
舎利弗よ。
私・如来は今、
 「現実を生きる願」の「抱えている現実に目を覚まさせる」はたらきと
 「究極の楽しみの有る世界」とに、
 苦悩の現実を生き抜く「勇気」と「智慧」を、
 私たちに振り向けるちからが在ることを見出し、
 誉め讃えているのである。
同時にそのことは、
 「現実を生きる願」のはたらきは、
 「あらゆる人々を、「現実を生きる願」に促される
       きっかけとなる方々として見出す」
 という、
 理性や分別からでは到達することができないところの事実を、
 明らかにする。

(15)
東方亦有 阿閦鞞仏、須弥相仏 大須弥仏 須弥光仏 妙音仏、如是等 恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言。汝等衆生、当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
(15)
譬えて説くならば、      
この世界より東の社会に在(いま)す、                 *20
 すぐれた宗教者、哲学者、教育者、科学者、政治家、法律家、芸術家、
 そればかりでなく、
 それこそ、その世界のあらゆる人々が、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を求めて、大いなる努力をしてこられた。
そのことが、
 輝かしいともいえる人間社会の
 進歩・発展・繁栄ということをもたらしてきた。
 彼らのされたことは、
 彼らの意思を超えて多くの人々に影響を与え、
 「あの人のように、成功したい」と、
 「私にも可能なはずだ」と、欲望に火をつけ、

 その実現を目指して生きることに対して、勇気づけてきたことも多い。
 しかし、彼らのしてきたその結果は、
 矛盾・葛藤・軋轢・不満・絶望・差別・抑圧の拡大・拡散を、
 人間世界にもたらしていったということでもあるのだ。
このことから、
 自らの心を励まして、大いなる努力をしてこられた人々の、
 そのようなはたらきの事実を見るならば、
 それはまさに、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという
      人間において最も大切なことを、
     見出すきっかけをつくっておられる」
 ということである。
如来は、
 その人々が尽くされた生涯を、
 我が生涯の意義を知らしめる縁となる人としての、
 大切な意味があることとして、
 受け取っているのである。

(16)
舎利弗、南方世界、有日月燈仏 名聞光仏 大焔肩仏 須弥燈仏 無量精進仏、如是等 恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言。汝等衆生、当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
(16)
舎利弗よ。
この世界より南の社会に在(いま)す、
 すぐれた宗教者、哲学者、教育者、科学者、政治家、法律家、芸術家、
 そればかりでなく、
 それこそ、その世界のあらゆる人々が、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を求めて、大いなる努力をしてこられた。
そのことが、
 輝かしいともいえる人間社会の
 進歩・発展・繁栄ということをもたらしてきた。
 彼らのされたことは、
 彼らの意思を超えて多くの人々に影響を与え、
 「あの人のように、成功したい」と、
 「私にも可能なはずだ」と、欲望に火をつけ、
 その実現を目指して生きることに対して、勇気づけてきたことも多い。
 しかし、
 彼らのしてきたその結果は、
 矛盾・葛藤・軋轢・不満・絶望・差別・抑圧の拡大・拡散を、
 人間世界にもたらしていったということでもあるのだ。
このことから、
 自らの心を励まして、大いなる努力をしてこられた人々の、
 そのようなはたらきの事実を見るならば、
 それはまさに、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという
      人間において最も大切なことを、
     見出すきっかけをつくっておられる」
 ということである。
如来は、
 その人々が尽くされた生涯を、
 我が生涯の意義を知らしめる縁となる人としての、
 大切な意味があることとして、受け取っているのである。

(17)
舎利弗、西方世界、有無量寿仏 無量相仏 無量幢仏 大光仏 大明仏 宝相仏浄光仏、如是等 恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言。汝等衆生、当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
(17)
舎利弗よ。
この世界より西の社会に在(いま)す、
 すぐれた宗教者、哲学者、教育者、科学者、政治家、法律家、芸術家、
 そればかりでなく、
 それこそ、その世界のあらゆる人々が、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を求めて、大いなる努力をしてこられた。
そのことが、
 輝かしいともいえる人間社会の
 進歩・発展・繁栄ということをもたらしてきた。
 彼らのされたことは、
 彼らの意思を超えて多くの人々に影響を与え、
 「あの人のように、成功したい」と、
 「私にも可能なはずだ」と、欲望に火をつけ、
 その実現を目指して生きることに対して、勇気づけてきたことも多い。
 しかし、
 彼らのしてきたその結果は、
 矛盾・葛藤・軋轢・不満・絶望・差別・抑圧の拡大・拡散を、
 人間世界にもたらしていったということでもあるのだ。
このことから、
 自らの心を励まして、大いなる努力をしてこられた人々の、
 そのようなはたらきの事実を見るならば、
 それはまさに、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという
      人間において最も大切なことを、
     見出すきっかけをつくっておられる」
 ということである。
如来は、
 その人々が尽くされた生涯を、
 我が生涯の意義を知らしめる縁となる人としての、
 大切な意味があることとして、受け取っているのである。

(18)
舎利弗、北方世界、有焔肩仏 最勝音仏 難沮仏 日生仏 網明仏、如是等恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言。汝等衆生、当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
(18)
舎利弗よ。
この世界より北の社会に在います、
 すぐれた宗教者、哲学者、教育者、科学者、政治家、法律家、芸術家、
 そればかりでなく、
 それこそ、その世界のあらゆる人々が、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を求めて、大いなる努力をしてこられた。
そのことが、
 輝かしいともいえる人間社会の
 進歩・発展・繁栄ということをもたらしてきた。
 彼らのされたことは、
 彼らの意思を超えて多くの人々に影響を与え、
 「あの人のように、成功したい」と、
 「私にも可能なはずだ」と、欲望に火をつけ、
 その実現を目指して生きることに対して、勇気づけてきたことも多い。
 しかし、
 彼らのしてきたその結果は、
 矛盾・葛藤・軋轢・不満・絶望・差別・抑圧の拡大・拡散を、
 人間世界にもたらしていったということでもあるのだ。
このことから、
 自らの心を励まして、大いなる努力をしてこられた人々の、
 そのようなはたらきの事実を見るならば、
 それはまさに、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという
      人間において最も大切なことを、
     見出すきっかけをつくっておられる」
 ということである。
如来は、
 その人々が尽くされた生涯を、
 我が生涯の意義を知らしめる縁となる人としての、
 大切な意味があることとして、受け取っているのである。

(19)
舎利弗、下方世界、有師子仏 名聞仏 名光仏 達摩仏 法幢仏 持法仏、如是等 恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言。汝等衆生、当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
(19)
舎利弗よ。
この時代より次の社会に在(いま)す、
 すぐれた宗教者、哲学者、教育者、科学者、政治家、法律家、芸術家、
 そればかりでなく、
 それこそ、その世界のあらゆる人々が、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を求めて、大いなる努力をしてこられた。
そのことが、
 輝かしいともいえる人間社会の
 進歩・発展・繁栄ということをもたらしてきた。
 彼らのされたことは、
 彼らの意思を超えて多くの人々に影響を与え、
 「あの人のように、成功したい」と、
 「私にも可能なはずだ」と、欲望に火をつけ、
 その実現を目指して生きることに対して、勇気づけてきたことも多い。
 しかし、
 彼らのしてきたその結果は、
 矛盾・葛藤・軋轢・不満・絶望・差別・抑圧の拡大・拡散を、
 人間世界にもたらしていったということでもあるのだ。
このことから、
 自らの心を励まして、大いなる努力をしてこられた人々の、
 そのようなはたらきの事実を見るならば、
 それはまさに、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという
      人間において最も大切なことを、
     見出すきっかけをつくっておられる」
 ということである。
如来は、
 その人々が尽くされた生涯を、
 我が生涯の意義を知らしめる縁となる人としての、
 大切な意味があることとして、受け取っているのである。
 
(20)
舎利弗、上方世界、有梵音仏 宿王仏 香上仏 香光仏 大焔肩仏 雑色宝華厳身仏 娑羅樹王仏 宝華徳仏 見一切義仏 如須弥山仏、如是等 恒河沙数諸仏、各於其国、出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言。汝等衆生、当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
(20)
舎利弗よ。
この時代より前の社会に在います、
 すぐれた宗教者、哲学者、教育者、科学者、政治家、法律家、芸術家、
 そればかりでなく、
 それこそ、その世界のあらゆる人々が、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を求めて、大いなる努力をしてこられた。
そのことが、
 輝かしいともいえる人間社会の
 進歩・発展・繁栄ということをもたらしてきた。
 彼らのされたことは、
 彼らの意思を超えて多くの人々に影響を与え、
 「あの人のように、成功したい」と、
 「私にも可能なはずだ」と、欲望に火をつけ、
 その実現を目指して生きることに対して、勇気づけてきたことも多い。
 しかし、
 彼らのしてきたその結果は、
 矛盾・葛藤・軋轢・不満・絶望・差別・抑圧の拡大・拡散を、
 人間世界にもたらしていったということでもあるのだ。
このことから、
 自らの心を励まして、大いなる努力をしてこられた人々の、
 そのようなはたらきの事実を見るならば、
 それはまさに、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという
      人間において最も大切なことを、
     見出すきっかけをつくっておられる」
 ということである。
如来は、
 その人々が尽くされた生涯を、
 我が生涯の意義を知らしめる縁となる人としての、
 大切な意味があることとして、受け取っているのである。

(21)
舎利弗、於汝意云何。何故名為 一切諸仏 所護念経。舎利弗、若有善男子善女人、聞是諸仏所説名 及経名者、是諸善男子善女人、皆為一切諸仏、共所護念、皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提。是故舎利弗、汝等皆当 信受我語 及諸仏所説。
(21)
舎利弗よ。
あなたはどのように聞いているのだろうか。
 なにゆえに、
 自らの心を励まして、
 自己の生き甲斐を自身の力によって明らかにされようと、
             大いなる努力をしてこられた人々をも、
   「「現実を生きる願」に促されて生きるという、
      人間において最も大切なことを、
       見出す縁となる方々」
 として、
 その人々のはたらきを受け取ることができるのか。」

舎利弗には、もう、釈尊が説かれていることがわからなくなっています。
 自分が釈尊と出遇う前の、人を率ひきいていた時の生活と、
 今、釈尊の説かれることを聞いている生活が、基本的には同じであると?
 このような、受けとり方を、舎利弗はしているのです。
 そうであっては、釈尊の問いかけに対しては、応えようもありません。

「舎利弗よ。
 もし自らの生き方を「善い生き方」として過ごしている人、
 男であれ女であれ、そのような人がいるとしよう。
 その人が、自分が「善」とする生き方をしていても、
 その人には納得できないような苦悩に出くわしてしまい、
 解決する術もなく、
 どうやっても自分の思いどおりには生きようがないと思い知らされる時、
 「現実を生きる願」の世界の教え、
 即ち、いま如来が説いているこの教えを、
 自分の思いを差し置いて、聞き応じてゆくのであるならば、
 このことこそが「善い生き方」の
 男であり、女となっているのである。
そして、その時こそが、
 自らの心を励まして、自分の生き甲斐を明らかにされようと、
 大いなる努力をしてこられたあの人々───
 それは、多くの人々に苦悩を与えた人でもあるのだが、
   「そういう人々を
    「自分の生涯の意義を明らかにする縁となった方々」
      として受けとってこられた方々」
 と、心を共にすることになり、
 それは正に、
 自らの生き方を「善い生き方」として過ごしてきた生き方を翻して、
 新しい生き方の決定をする時でもあるのだ。
このゆえに、舎利弗よ、そしてあらゆる人々よ。
今、如来が明らかに説いている教えは、
   「「現実を生きる願」の世界で、
       かの方々とともに、
      わが身の困難や苦悩をも、
    自己の生涯の意義が明らかになる縁として受けとる」
 ということである。
これは私・如来の生き方である。
 この言葉を、如来の心として受けとり、
 その生活をすることを勧めているのである。

(22)
舎利弗、若有人、已発願、今発願、当発願、欲生阿弥陀仏国者、是諸人等、皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提、於彼国土、若已生、若今生、若当生。是故舎利弗、諸善男子善女人、若有信者、応当発願 生彼国土。
(22)
舎利弗よ。
 老若男女・貴賤・経験の多少・財の有無など、
 そういったことにかかわりなく、
 自分としていかんともしがたい苦悩に直面することが、
 人間には必ずある。
 そのような人が、たとえ苦し紛れであろうが、
         何とか現実を解決したいと思っていようが、
         どのような不純な動機があろうが、
 自己の経験・能力・才覚を差し置いて、
 「現実を生きる願」に促されて生きていると思われる人を
    既に、見出したいと願ったことがあり・
    この教えを聞いている今、見出したいと願っており・
    あるいは、これから見出したいと願うことになるならば、
 その人は、自分では意識していなくとも、
 心底では、
「現実を生きる願」の「究極の楽しみの有る世界」に生きたいと、
 願っている人なのだ。
そのような人々は、
 自分の経験・能力・才覚を頼りにすることなく、
 かの方々の生き方に学び、
 それを生きる態度とすることが、
 即ち、
 「究極の楽しみの有る世界」で自分の生涯の意義を見出せることに、
    目覚めたことがあり・
    目覚めんとしており・
    目覚めることになるのである。
このように、
 人間が、いきいきと現実を生きたいと願ってきた事実の歴史が、
 私たちに伝統されているのである。
だからこそ舎利弗よ。
そして自分の生涯の意義ということを、
         あらためて問題にせざるをえなくなった男よ、女よ。
もし、如来の説くこの教えを聞いて、
   「現実を生きる願に促されたかの方々と、              *21 
      ともにまた、生きて往かん」
 と願うならば、そのことが、
 あなたの生き方になるということなのである。
それは、かの方々を見出すことであり、
 また、自己の生涯の意義が明らかになってくることであり、
 必ず、かの方々の世界に生きることができるのだ。

(23)
舎利弗、如我今者 称讃諸仏 不可思議功徳、彼諸仏等 亦称説我 不可思議功徳、而作是言。釈迦牟尼仏、能為甚難 希有之事、能於娑婆国土 五濁悪世、劫濁 見濁 煩悩濁 衆生濁 命濁中、得阿耨多羅三藐三菩提、為諸衆生、説是一切世間 難信之法。
(23)
舎利弗よ。
如来は今、
 自らの心を励まして、自分の生き甲斐を明らかにしようと、
 大いなる努力をしてきたこの人々が、
 自身では意識できていなくとも、
 どのようなはたらきを他の人々に与えるかということの
            事実を明らかにし、その役割を認めた。
だがその人々は、
人類の歴史の中から、最も自然なこととして如来が見出した、
 「現実を生きる願」のはたらきと、
 「究極の楽しみの有る世界」について、
 自らの心を励まして大いなる努力をする生き方からは、
 とても「理解」することができないので、
 如来が説いていることについて、
 このように語るであろう。
  「その昔、
   「釈迦族出身の、真実の人間に目覚めた尊い者」として
   「釈迦牟尼仏」と、名づけられた者は、
   「人生の意義を自分の力で決定する」ことは、
   人間の努力では不可能なことであり、
   その根拠としての事実が明らかであると、
   そのことを我らに説いた。
  しかしながらそのことは、
   効率・進歩・発展・向上・努力という人間の力を大切にする
   我われの生き方からは、
   とうてい、理解し難いことである。
  この人間社会は、 
   理想を実現していこうとする人間の意志に、
   進歩・発展の原動力があるのだ。
   その意志によって、
   「効率社会が人間生活を豊かにしていく」
   「合理か否かを基準として物事を判断する」
   「経験・能力・才覚を高めることを、「善」とする」
   「一人ひとりの個性を活かすことに、人生の意義がある」
   「あらゆる人に、不可侵・平等の人権が、本来としてある」
   という考え方・生き方に普遍性が与えられ、
   そこにこそ、人間の真実があるのだ。
  しかし、釈迦牟尼仏は、
   釈迦牟尼仏が諦(あきら)かに見出したこととして、
      「現実を生きる願に促されたかの方々と、
         ともにまた、生きて往かん」
   ということが、
   人間社会の根底に流れている人間の真実の願いであり、
   それのみが普遍性あることである、と
   我われに説いている。
   そのような生き方・考え方は、

   この人間世界においては、
   とても受けとり難い人生の方法である。」
 と。

24
舎利弗、当知我於 五濁悪世、行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法。是為甚難。
(24)
舎利弗よ。
とても悲しむべきことではあるが、
 このような考え方で、如来の説くことを疑い続けるのは、
 この人々をして、この人々たらしめ、
 この世界をして、この世界たらしめることである。
そして舎利弗よ。
 自分の経験・能力・才覚を拠り所として、
 自分の思いを遂げようとすることが尊いとされるこの人間社会ゆえに、
 かえって、
 人間の苦悩が、避けがたく露になってくるのだ。
 事実として、私自身で苦悩を解決する方法を、
 「自らの力」として保持することはできなかった。
 私自身でも手立てがない私の苦悩の現実において、
 そして、私の思いが破れることから、
 私・如来は人間の苦悩の底を貫いて流れている
 「現実を生きる願」の世界を見出し、
 その世界を、
 私の生きて往く根拠として決定したのである。
それゆえに、
 苦悩の現実にあっても、
 人が、いきいきと現実を生きることができるのは、
 いのちの本来のちからによることを明らかにし、
 苦悩にとらわれている人々に、
    「現実を生きる願に促されたかの方々と、
       ともにまた、生きて往かん」
 というこの「言葉」による生活で、
 あの人々を見出し、
 かの世界の方々を見出すことを、
 如来は、勧めているのである。
この「願」を生活として持たもつこと以外では、
 いきいきと現実を生きる道が開かれてくる方法は、
 私たちには有り得ないことなのだ。
 それが、人間の事実である。

そうではあっても、
 如来のこの教えを説くこと自体が、実に困難なことである。
 なぜなら、
 日頃の心には、とても信じ難いことである上に、
 人間の努力や生き甲斐を否定する教えであると、
 受けとられてしまうからだ。
 決してそうではない。
 人間が自分の思いに対して努力を尽くすことは、
 とても大切なことなのである。
 努力を尽くすことによって初めて、
 自分の思いが通らない人間の事実が、
 その人に、明らかになってくるからである。
そのような、人間社会ではとても信じがたい
   「現実を生きる願に促されたかの方々と、
      ともにまた、生きて往かん」
 というこの「言葉」による生活で、
 あの人々を見出し、
 かの世界の方々を見出し、
 ともに生きる教えを説くこと自体が───、
               甚だ困難なことなのである────」

25
仏説此経已、舎利弗、及諸比丘 一切世間 天人阿修羅等、聞仏所説、歓喜信受、作礼而去。

仏説阿弥陀経
(25)
釈尊は、このように教えを説き終えられたのです。
舎利弗を始めとして多くの弟子たちは、
 感覚に感じる快楽、
 自己表現の愉楽、
 真理究明の悦楽、
 あるいはまた、
 闘いの勝利、経済力の強化、健康、社会的評価等、
 それらの諸楽を求める人間のあり方がまさに自分たちであり、
 釈尊に問う者がいなかったにもかかわらず自ら説かれた、
 希有なる教えによって、
 その自分たちが「肯定された」と、聞いたのです。
それゆえ、身も心も嬉しくなり、
 この教えを正しくに受けとった確信をもって、
 釈尊の去られた座に対して、
 頭を下げ恭しく礼を差し出して、講堂から退出したのです。
                                                                                                      
         そこでは、誰一人として、               *22 
          釈尊の悲しみを、
   自分の生きていくことの問題として受けとった者は
          いなかったのです。
                                                                    

釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え
仏説阿弥陀経 回疎訳                       了

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
                                          仏説阿弥陀経 回疎訳  注記部

 この注記部につきまして、事前にコメントしておきたいと思います。

 既に前舒などにも記してありますが、この「回疎訳」は、「私訳」ですので、真宗大谷派の教学的に裏付けのあるものではありません。「回疎訳」全体が、「私に受けとれた」という点から表現しておりますので、極論すれば、「回疎訳」もこの「注記部」も、私の思いを連ねているということです。そのことは、教えを説かれた方の責任はない、ということで、この本の内容に関する責任は、もし、批判なり非難があれば、釈 功聴が頂戴するということです。このことは、明記しておきます。

 それで、問題となりそうなところを、事前にさらけ出しておいたほうが、何かにつけて便利ではないかと考え、注記部とする次第です。いささか独断に過ぎていたり、くどくなっている点など多くありますが、それも「回疎訳」ゆえに、お許しのほどを。

 

 注記部の凡例   1 典 は、『真宗聖典』(東本願寺出版部・第8版)
          2 書 は、『真宗聖教全書』(大八木興文堂)
          3 典、書のすぐ後の漢数字は、参照するそれらの頁。
          4 「  」は、典、書からの引用文、あるいは強調文。
          5 〔  〕は、この回疎訳からの文。

注No                                      
*1  経題について。                              
 『仏説阿弥陀経』を、
     釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え
としていることは、根本的にこの訳の問題点を現しているであろう。端的に言うなら、「阿弥陀」を〔現実を生きる願〕としていることについてである。
 「言無量寿者、乃是此地漢音。言南無阿弥陀仏者、又是西国正音。又南者是帰、無者是命、阿者是無、弥者是量、陀者是寿、仏者是覚」(書四四四)とあるが、「阿者是無、弥者是量、陀者是寿」ということは、阿弥陀=無量寿である。それを〔現実を生きる願〕としているということである。
 私たちは、「いきいきと生きる」ということは、感覚できる。およそ、自分の意欲を満たそうとして何らかの行為の中にある時には、そのことを感じているのだ。また、私たちは、〔現実を生きる願〕という言葉からは、自分の意欲をかき立てる対象や目的を、「願」としてしまうのである。いづれにしても、「自分の考えていること」がその中心にある。
 ここでの「願」は、そのような、私たちのあらゆる「意識できる意欲」を含みつつも、環境に相応した生存の基礎的な欲求をも揺り動かすところの、その根源を、〔現実を生きる願〕としている。それゆえに、「現実を生きる」ということを、自分の思いから想定できる「いきいきと生きる」ということに限定しては、〔現実を生きる願〕を誤解していくことになる。
 私たちが、自分の意識で肉体や精神をコントロールできる場合もあるが、それ以前に、いのちそのものが、あるべきいのちの全体の関係をコントロールして、どのような環境にあろうとも、その環境の中で、いのちそのものの現実を生きようとしているのだ。そのようなはたらきをすべて包含して、いのちそのもののはたらきを、「願」と名づけているのである。
 そのことは、すべてのいのちあるものは、「願」を顕しているということである。その「願」に、この身が支えられているのであるから、私たちには、かえって、自分の力で「願」を意識することは、できないということになる。空気の中に生きていると、空気が意識できないのと同じである。
 私たちが生きていく中で、自分に意識できる意欲が潰されていくと感じられる時、それは自然環境であれ人間(社会)環境であれ、その環境と自分が分離されている、関係が希薄になっているそのような時に、苦悩が意識されてくる。環境からの分離・関係の希薄さが、自分で意識できるところの満たされない意欲からすれば、それが苦悩である。だが、「願」からすれば、関係を求めているということが、より明らかになっているということである。
 「願」といっても「身」を離れてあるものではない。「身」を通して常に関係の中ではたらき、関係を求めてはたらくものである。苦悩の現実の中ではその苦悩を通して、「願」本来のはたらきが、人と人との関係の中ではたらこうとするのである。関係を回復させるちからが、「願」である。しかし私たちは、「願」のそのようなはたらきを、なかなか感じられない生き方をしているのだ。そのことは、自分の意識できる「いきいきと生きる」ということが、多くは、他との関係を希薄にしていく生き方であるということに、気がつかないということでもある。
 私たちはどうしたら、そのような「願」を知ることができるだろうか。前に述べたように、「願」を意識することは、私たちは自分の力ではできないのである。知らされて、頷くしかないのである。
 では、どのように知らされてくるのか。それは、苦悩の中で、〔現実を生きる願〕の世界に生きておられる方々を見出すことによってである。私たちが、自身において苦悩を意識できないならば、それらの方々を見出すきっかけがつかめないのだ。しかし、その時においては、自分の思いから発想する「いきいきと生きる世界」ということにこだわっていては、かの方々は見出せないのである。それは、「苦悩の状況」にあってさえも、自分の生き方を「善し」「良し」として肯定しているということなのだ。(しかも困ったことに、私たちは、そのこだわりから、自分自身では離れることもできないのである。そのことは、教えを聞いていくことでしかはっきりしない。いや、聞いてもはっきりしないのが、私たちなのだ。)
 また、かの方々自身が、〔願の世界〕に生きているという意識をもっているかどうかは、まったく問題ではない。私たちが、見出せるかどうかの問題である。この、見出すということ自体が、私たちの生き方での、根本問題なのである。私たちは、見出すなんて簡単なことだと思っているし、自分自身の力で自分自身を見出せると、それこそ、無意識の内にそう思っているのである。
 だが、見出すということは、かの方々に、〔願の世界〕に生きておられるということが、私たちに感覚できる時である。しかも、そういう方々を見出そうなんて思っている限りは、見出せないのだ。実際は、そんな人に係わったら、今まで自分としていたものが崩壊していくのが予想されるため、そのような方々を避けて通りたいと思っているのが私たちの生き方なのである。

 そうではあっても、見出す、感覚できる時がある。それは、私たちに具わっている「願」が、関係回復のちからとしてはたらく時でもあり、わが身の内なる「願」が、かの方々から感覚できる「願」に呼応する時なのだ。そのような「願」の関係を、「即」というのであろう。
 〔現実を生きる願〕が、人から人へと見出され、伝わってきた。それは、いのちの始まりから続いてきたと言えよう。「願」を見出されてこられた方々は数え切れない。それは、「生きていること」の苦悩を通して、生きることを真剣に学んでこられた方々が、数限り無く多くおられるということである。それゆえに、〔現実を生きる願〕は、限り無き長さと幅がある。その長さと幅が願の世界の大きさを示す。それが「無量寿」である。
 また、『仏説』の「仏」は、釈尊であるのは言うまでもない。しかし、「阿弥陀」ということを諦かに見出した、あるいは、「阿弥陀」ということに目覚めたことが、「仏めざめ 」である。したがって、経題は、「釈尊の仏めざめ の内容が開く世界」を、端的に意味するものでもある。
 そして、『経』は、教えであることを示す。
 このことが、『仏説阿弥陀経』を、〔釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え〕と回疎訳する所以である。

*2 「如是我聞」
 典三三三に、「如是」について、善導の序分義からの引用がある。経典の最初に示される「如是我聞」の「如是」は、「法を指す」と。『観無量寿経』の場合は、「定散両門」であると。この『阿弥陀経』では、「浄土の真門」を示す法が説かれている。(典三四六)                    そして、『阿弥陀経』の「顕彰隠密の義」(典三四五)のうち、彰の義がどのようなことであるかを、聞いてきたことや推測できることから、回疎訳として文章化してみるわけである。
 本来であるなら、「是とは、定むる辞なり」で、真実なのであるが、回疎訳である限りは、その真実がきちんと文章になって表現されているかは、定かではない。また、「如と言うは、衆生の意のごとしとなり」とあるが、顕の義に示される、私どもの要求に応えて「自利の一心を励ます」という方法をもってのみで、それでいて、如来の法(つまり、私どもが自分の経験・理性にこだわる限り浄土が開けてこない。しかし、聞くということがその人の身に具われば、そこから、本人には「浄土」と意識されていなくとも、浄土が開けてくるという彰の義)であることを、きちんと表現できているかも定かではない。
 そうではあっても、『阿弥陀経』で説かれていることが、このように私には聞き取れたということを、『阿弥陀経』の次第に沿って、多くの「錯失」があったとしても、この回疎訳で表現してみたかった。
 ここにおいての、「我聞」が成り立っているかどうかは、これをお読みになった方々にお任せするのみである。

*3  ここは、「時成就」である。『観経疏』(書四六五)の意訳。

*4 「時成就」の中でも、特殊な時であることを示す。釈尊の教えは、問う人があってそれに応えることで成り立っているのが普通である。つまり、問う人なく教えが説かれることは、普通はないのだ。聞く人を取り去った所に教えだけがあるということはない、ということである。
 「無問自説経」といわれる『阿弥陀経』の特殊性を、ここに出す。『一念多念文意』(典五四〇)参照。

*5 釈尊の高弟といわれる方々を、〔困った人たち〕とするのは、大変失礼とは思う。しかし、『観経疏』(書四六六〜七)の衆成就を参照すれば、どれほど真摯な弟子であろうとも、〔困った人たち〕に違いない。
 また、〔困った人たち〕とは、本人たちが意識するしないに関わらず、彼らは、「自分の現実に困った」=「自分の現実に苦悩した」人でもある。もし自分の現実に苦悩することがなかったのならば、彼らが釈尊の弟子になることはないのだから。ただ、自分の苦悩を解決することを彼らの要求としながら、釈尊の教えを聞いているのである。そういった意味で、なかなか聞こえてこない人たちであるということなのだ。(6参照)

*6 「声聞」を、〔釈尊の教えを聞くことによって、自分が理想の人間になっていく道を見出そうとしている人々〕とする。つまり、釈尊の教えを、自分の思いを遂げるために聞こうとしているのである。それは、先輩諸師の話されることを聞いている、私の態度と同じである。私は、どれほど真面目に聞いていたとしても、自分の目的を達成したいがために聞いているのだ。そういった意味で、私は、声聞以外になりようもない。

*7  人名について、その一。
 「舎利弗」とは、いったい何者だろうか。釈迦十大弟子の一人であり、「智慧第一」とされる「舎利弗」に、どのような「こと」が示されているのだろうか。
 この『阿弥陀経』での舎利弗は、私には、一二五〇人満座の中で、釈尊から叱られているように思えてならない。(そのように聞いた記憶もあるが) なぜなら、この短いお経の中で、三十何回も、「舎利弗」「舎利弗」と呼びかけられているからだ。「智慧第一」の舎利弗が、なぜそれほどまでに呼びかけられるのか? 
 私には、釈尊がいくら説いても、舎利弗は自分の経験を秤にして釈尊の教えを聞いているのが、釈尊にははっきりしているので、浄土のすがた・はたらきを説かれる中で、舎利弗に、重ねて注意を促しておられるのが、『阿弥陀経』の中の「舎利弗」という声なのだと思う。

 「智慧第一」の「舎利弗」とは、「知恵第一」のこの私でもある。自分の経験に基づく「些細な知恵」を第一にして、教えを聞いていくこの私のことだ。そして、聞いたことを、「確かにこのように聞いた」と、「聞いた言葉をそのままに自己了解としてしまう」私のことである。そのことを、私は『観無量寿経回疎訳』(第1版)でしてしまっているのだ。
 よくよく考えてみれば、「聞いた言葉をそのままに自己了解としてしまう」などとは、実に傲慢で失礼なことである。説かれた人の言葉の内容と、受けとる私の言葉の内容は、明らかに違うのである。説かれた方と私とは、経験が違うのだ。聞いたままにそれを自己了解とすることは、自分の生きてきた事実を、自分で否定することなのだ。自分の生きてきた事実がどのようなことであったのかと、自分の経験したことがどのような「事実」であったかが明らかになってくるのが、教えであると思う。それを聞くのであるなら、「聞いた言葉をそのままに自己了解とする」ことは、聞いたことになっていないということだ。そうであっては、反省すら出てこないし、生きることへの勇気が出てこないし、単なる知識が増えることに過ぎない。
 私は、ここで記されている名の人々が、特別の人を意味するものではなく、「あらゆる人々」を表しているのだと思える。そのまた代表が、「叱られ役の舎利弗」である。舎利弗を通して、その席にいるもの全員が、もっと具体的には、教えを聞こうとしているこの私が、その「自分の問題を解決しよう」とする聞き方について、叱られているのだ。
 つまりは、聞くことの難しさがあらためて問題になってくるのが、『阿弥陀経』であろう。この回疎訳が、はたしてどうなのか? 自分自身では、なかなかわからないところである。

  人名について、その二。

 ここに、舎利弗以下十六人の名が挙げられている。それらはすべて音写であるから、当然、文字の意味と名の意味とはつながらない。舎利弗=身子、目­犍連=胡豆こず、迦葉=飲光、難陀=歓喜、阿〓(少/兔)楼駄=離障などと漢意訳されているようだ。この、=○○の方に、漢字としての意味がある。いや、意味というよりは、願いが名の意味にに込められていると言う方が適切かもしれない。経典に出てくる弟子たちの名、それを漢意訳したものが了本際、正願、正語、大号、仁賢、離垢、満願子、名聞、善実、具足、浄志、嘉楽、牛主、房宿、不空­­、室宿などであるが、その願いが示されているということであろう。(詳しい意味はともかくとして)
 それらは、「釈尊の弟子であるから特別に名に願いが示されている」ということではないと思う。日本でもそうだし、おそらくは、あらゆる人々の「名」というのは、願いが込められているのでろう。
 逆に言うなら、「名」=「願い」が人を表しているということだ。もし、私に「名」が無ければ、私には願いが込められていないということである。つまり、何も願われてない、「どーでもいい存在」なのである。いや、存在すら認めてもらえないのだ。名が無いということは、人間でなくなるということである。他との関係を保持していないということだ。これは、大変なことである。
 白川 静さんの『字統』(平凡社)という辞典で、「名」を調べてみると、実に、「名」の宗教的な意味が窺える。そして、確かに、「名」=「願い」が人を表していることがわかる。
 もう少し深く考えてみると、どうも、「願い」が人を表しているということは、「「願」が人を顕す」ということになるようだ。どうもうまく言えないのだが、こういうことである。
   人が自分で意識できる領域が、「願い」を表し、
   人が自分で識できない領域で、「願」が「願い」を促し、
            「願」が、人を人たらしめる。
 どちらも、「ねがい」であることなのだが、私としての遣い分けをこのようにしていると思う。
 だから、「願」によって「願い」がはっきりすることが人に表されてなければ、人は、人で在ることを失っていくということになる。この時、「願い」をはっきりさせることはその人でもできるが、「願」が顕れているかどうかは、他者によってでしか意識できないと言えると思う。そのことは、「願」を自分で意識することはできないということだ。(注No8に関連する)
 私に付けられた「名」は、名づけた人の「願い」が表されている。しかし、その「願い」を促した「願」を、自分が満たしているかどうかについては、私は意識できない。これは実に、やっかいなことである。自分が何者であるかが、わからないのだ。他者の私に関する意識を聞き取るしかないのである。しかし、他者の意識は、概ね私の思いを超えているので、私には受けとるのに抵抗があるのだ。これは、やっかいだ。

*8 「菩薩」について。
 『阿弥陀経』には、「もろもろの菩薩摩訶薩、文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩、かくのごときらのもろもろの大菩薩」とある。私たちは、菩薩という言葉から、どうしても、彫刻や絵画で表現された人物としての像を想い描いてしまうが、そのようなことではないようだ。
 菩薩とは、
 「如来のはたらきを顕す(菩提=bodhi)衆生(薩埵=sattva)」
なのだから、固有名詞としての「文殊師利・阿逸多・乾陀訶提・常精進」の姿を見るということはない。その会座におられる人々(=衆生)に顕れている如来のはたらきをもって、菩薩とするということになる。あくまでも、そこでの姿は衆生である。○○菩薩とされる方がおられるわけではないのだ。
 釈尊の弟子たちの本人の意識はどうであれ、そこに「菩薩」を感じられることによって、『経』の中で菩薩としての名が記されているのだ。そこにいる人たちは、本人の意識としては、あくまでも「声聞」である。私たちは、自分で「菩薩」を意識できないのである。もし、自分で自分のことを「菩薩」と意識しているのなら、それは傲慢な思い過ごしであるということだ。如来の「願」が顕れているかどうかは、他者が意識することである。

*9 「諸天」について。
 『経』に、「釈提桓因等の無量の諸天・大衆と倶なりき」とある。これも、「釈提桓因等の無量の諸天」というすがたが、その会座にいる人々に顕れているということが説かれていることだと思う。
 そして「・大衆と倶なりき」とあることは、人々に、目覚めの道を求めるすがたと、人間の理想(つまり、自分の思い)を求めるすがたの、相反するすがたを同時に認めることができるということが、示されている。いや、そのような相反するすがたを同時に認めることができるのが、あらゆる人間のすがたであることが、ここで示されているのだろう。そのことは、人間が固定的にその在り方を限定されているものではなく、あらゆる人々が、「目覚めの道を求めること」を生きていることの根本に持っていることを、如来の認識として、ここに示されているということである。ここにおける「大衆だいしゅう」とは、その認識で如来から見られた私たちである。しかし、私たちは、人間の理想(つまり、自分の思い)を求めることしか、意識できないのであるが。
 そういう私たちを、如来は「大衆(だいしゅう)」とされるのである。  

*10  この会座の情景は、これ以外にも出てくるのであるが、訳者の脚色である。しかし、この回疎訳全体の中では、不可欠な要素になっている。

*11  「過十万億仏土」
 遙か彼方である、私たちの意識としては。
 しかし、すぐ足下である、見出してみれば。たった「十万億仏土」である。何分、お経の中の「単位」は、無量無辺・阿僧祇・劫・恒河沙・久遠無量不可思議無央・無量億などであり、それからみれば、十万億は、ごく小さな数字ということになる。だが、見出せないから、遙か彼方になってしまうのだ。そのことが、なかなかわからない。

*12  「極楽」

 サンスクリット語の原義としては、「楽有」とか「楽具」だそうだが、漢訳された時に、「極楽」と意訳されたとのこと。仏典での「極楽」という言葉の初出は、この『阿弥陀経』

だそうである。(岩波『仏教辞典』による) この回疎訳では、「究極の楽しみの有る世界」と受けとった。

*13  後舒にも記していることではあるが、「究極の楽しみの有る世界」が開かれてくる現実相を、「その人の身に係る苦悩の現実」とした。このことは、『阿弥陀経』で説かれる浄土の荘厳を、この回疎訳では、悉く、苦悩の現実として露にしてしまった。こういうことは大きな問題があると思う。今まで、私が目を通した限りの現代語訳(?)の本においては、浄土荘厳ということが美的・絵画的に、経典の単語を遣ってのものしかなかった。現実と、経典に説かれる浄土との関係が、どうもそれらからは窺えないのである。

 しかし、「転ずる」「離接点」ということをはっきりさせるためにも、現実の苦悩という前提を確認しておきたいし、そのことを通じて「浄土荘厳」という概念をはっきりさせたいのである。なぜならば、そのような私どもの「苦悩の現実」こそが、教えが開かれてくる本なのだ。その現実へ「大悲」されることによって、「仏願」が「生起」されるのである。

*14  『経』に、「極楽国土 七重欄楯 七重羅網 七重行樹 皆是四宝 周帀囲繞」とある。こういうことが、「七宝の牢獄」であることに、私たちは気がつかないのだ。かえって「七宝の牢獄」に生活していることに、自分の意欲の満足を感じようとしている。そこが、居心地よい処になっていくことを望んでいるのだ。邪魔するものを許せなくなってくる。それは、意識できる「極楽」を守ろうとする、私たちの生き方である。
 「七宝」を、〔矛盾、葛藤、軋轢、不満、絶望、差別、抑圧〕としてみれば、そのような意識できる「極楽」は、「苦悩」と接していることが明らかとなってくる。仏眼からすれば、人間世界のあらゆる苦悩の現実が、まさに、「生涯の意義が明らかにになる」ところの「宝」なのだ。肉眼の私どもには、とてもそのような現実が「宝」となることはないのである。

*15  『経』に、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔」とある。これについて現代語訳の注などでは、「一人ひとりが個性を発揮して、調和ある社会を成立させる世界のこと」というように述べられている。しかし、その現実相はどのようなことなのか。そのように成り得ない人間の生き方だからこそ、「調和ある社会を願いとする世界」が、七宝の現実から願われてくるのだ。きれいごとの世界ではない。現実の苦悩の根底を直視することから、願がはっきりしてくるのだ。

*16   『経』に、「舎利弗 極楽国土 成就如是 功徳荘厳」とある。何回か繰り返して出てくるこの言葉を、この回疎訳では、

   だからこそ、舎利弗よ。
      苦悩の現実を否定してはならない。
      苦悩の現実を抱えているわが身であればこそ、
      わが身の生涯の意義が明らかになってゆくことが
      「究極の楽しみの有る世界」において可能となるのである。
      この厭いとうべき現実世界こそが、
      「究極の楽しみの有る世界」への門であると、
      かの世界に生きる方々は持たもってこられたのだ。

とした。こういう表現では、決して「翻訳」たり得ないだろう。このように表現できるのも、回疎訳の所以である。

*17  「三悪趣」について。
 この回疎訳では、「三悪趣」を、
  〔他者を拒否すること〕   =地獄
  〔競争すること〕      =餓鬼
  〔物事の根本を問わないこと〕=畜生
としてみた。あまりにも単純化しすぎたようにも思えるが、この言葉以外に適切なのが見つからなかった。いづれにしても、地獄・餓鬼・畜生が別々にあるのではなく、「人間を見失っている」という私たちのすがたを顕すものであるから、相互に関連することと言える。

*18  「皆自然生 念仏念法念僧之心」を、
  その声が聞こえてくれば、
  「現実を生きる願」に促された方々・
           かの方々の生き方・
           かの方々のおられる世界が、
   その人の心の中で、ようやく問題となってきているということである。
とした。はっきりしないが、問題があるかもしれない。
 というのは、この科文 7では、前に「皆悉念仏念法念僧」がある。この「念仏念法念僧」は共通しているのであるが、どうも内容に違いがあるようだ。つまり、
  「皆悉念仏念法念僧」 =現実の人びとに意識されていること
  「皆自然生 念仏念法念僧之心」 =願の世界
のように思える。『聖典』の読み下し文(一二七と一二八)も、微妙に異なっている。

*19  この科文 9の前半は、浄土荘厳における声聞の意義が説かれていると受けとった。

*20  科文15から20までの六方段、「諸仏の証誠」をこのように受けとった。当然のことながら、『大無量寿経』の第十七願の「諸仏称名」と関係する。
 私においての「諸仏称名の願」の受けとりは、
   諸仏「に」、ではなくて、諸仏「を」、
がポイントである。この「諸仏「を」」ということは、「諸仏として」ということでもある。「客観的に見て、「諸仏」であるかないか?」などということは、どうでもいいのである。
 だから 「諸仏の証誠」とは、「諸仏の意義を、このように、釈尊が見出された」、あるいは、「とてもじゃないが、およそ「仏」とは呼べないものに対して、そういう人々から、自分の生涯の意義を明らかにするきっかけを見出したのであるから、そこに「仏」を釈尊が見出した」ということ「因」とする。そして、その「果」としての「諸仏の証誠」があるということだ。
 どうも、聞いていると、「南無阿弥陀仏」には、「諸仏を称名」することが基本にあるように思う。それに、親鸞もこう説いている。
   「権化の仁、斉ひとしく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済し、世雄(せおう)の悲、
    正しく逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)を恵まんと欲す。」(典一四九)
と。この中の「逆謗闡提」ということが、「自分の意識として、いきいきと生きること」にエネルギーを注ぐ人びとを指して説かれたと思える。
 ウーム。そうすると、私たちは正に、「逆謗闡提の六方段の諸仏」として、釈尊から見出されていることになるということか。ウーム、私たちが、釈尊から諸仏として見出されているということか。これは、思いもしないことだ。
 このことは、『観無量寿経』で、私たちを「本願の機」として見出しておられる釈尊の真実が、この『阿弥陀経』でも顕されているということになる。これは、大変なことだ。ウーム。

*21  「阿耨多羅三藐三菩提」について。
 「阿耨多羅三藐三菩提」(=正覚)は、『阿弥陀経』で四ヵ所ある。ここのみ、文脈上から他とは異なる(ちょっと弱め、曖昧)表現にした。しかし、科文23以降は、
   「現実を生きる願に促されたかの方々と、
      ともにまた、生きて往かん」
とした。この「言葉」の意味は、必ずしも単純ではない。しかしこのことが、私にとっての「南無阿弥陀仏」の意味である。あるいは、「南無阿弥陀仏」という言葉の、「現代日本語」での表現である。
    釈尊の目覚めの内容が、「南無阿弥陀仏」である。
    そして、釈尊の大行が、「南無阿弥陀仏」である。
    また、釈尊の大信が、「南無阿弥陀仏」である。
    阿弥陀仏を見出し、南無した初めての人を、「釈尊」という。
 私にとっては、「南無阿弥陀仏」を、
   「現実を生きる願に促されたかの方々と、  
      ともにまた、生きて往かん」
と言い換えた時に、やっと、何が何だかさっぱりわからなかった「念仏」「仏を念ずる」ということが、佛ほのかに感じられてきた。(「佛」という文字のもともとの意味は、「ほのかに」ということだ。)
 「南無阿弥陀仏」を、このように「意訳」することが、はたして適切かどうかは問題があろう。しかし、私の事実として、どれほど発音がはっきりしていても、「一次的にすら意味が受けとれない言葉」には、どうしても感覚が起きないのだ。「アミターユス」「アミターバ」「南無阿弥陀仏」の、そのままの「音」に感覚できるほど、私は豊かな経験をしていない。つまり、どうあっても、「南無阿弥陀仏」という「音」「文字」からは、自分の生活が明らかになってこないのだ。「南無阿弥陀仏」が生活にならないということである。あるいは、「南無阿弥陀仏」で説かれる「正定業」ということが、何を指していることなのかがわからないということである。
    「現実を生きる願に促されたかの方々と、
       ともにまた、生きて往かん」       
という回疎訳が、「南無阿弥陀仏」のすべて含んでいるなどとは、とても思えないが、この回疎訳を通して、あらためて、「現実を生きる」「願」「促される」「かの方々」「ともに」「決定けつじょう」ということが、私の問題となってくる。それは、簡単に「南無阿弥陀仏」を、呪文のごとく言葉そのままに信じるなんていうことで、収まりがつくものではない。
    「現実を生きる願に促されたかの方々と、
       ともにまた、生きて往かん」       
という言葉では、幸いにも「呪文」にならないのである。自分が、その言葉の生活になっているかどうかを自分でもわかる言葉になっているのだ。それは、私自身にとってもシンドイことなのだが、私の生き方そのものが、あらためてこの回疎訳を通して問われてくるということなのだ。「仏の所説を聞きたまえて、歓喜し、信受して、礼を作して去りにき」では終わらないのである。

 「浄土への真門」とは、「南無阿弥陀仏」を言葉として受けとった者が、その「生活」になっていけるかどうかということが問われるということであろう。習慣や知識として「南無阿弥陀仏」を知ったとしても、それは「不如実修行と名義不相応」(典二一四)である。習慣や知識にどっかりと腰を落としてしまう「南無阿弥陀仏」では、「無明なお存して所願を満てざる」(典二一三)ということになる。そんなことは、当たり前のことだ。

 この「真門」は、「南無阿弥陀仏の生活者になる法」が説かれているということである。釈尊は、「南無阿弥陀仏の生活者になる」ことを自分の思いとしている私たちに対して、私たちがどう受けとるかどうかにかかわらず、真実の心で、私たちに、釈尊の目覚めの内容を説かれ、その法を勧めておられるのだ。しかも、私たちが釈尊の教えに背いていても、「南無阿弥陀仏」の道を歩むきっかけを、必ず内に持たもっているかけがえのない「諸仏」として、私たちを見出しておられるのである。いや、釈尊の教えに背いている私どもが、釈尊が如来たらしめられる「因」となったことによって、逆に、私どもが釈尊から、「諸仏」とされているということとも言えよう。
 しかし、私たちはそのような真実の心を振り向けられているのに、気がつかないのである。

 

*22  善導大師の『法事讃』の言葉が痛い。(書六〇五)

   超過大地微塵劫       大地 微塵劫を超過すれども
   未可得離三途身       未だ三途の身を離るること得るべからず。
   大衆同心          大衆 同心に
   皆懺悔所有破法罪因縁    皆 所有破法罪の因縁を懺悔せよ。
                               

 
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  仏説阿弥陀経 回疎訳の後舒

 釈尊によって『阿弥陀経』が説かれる根底に、人間の苦悩の現実があります。苦悩は、『無量寿経』の中では、「三毒五悪段」に詳細に説かれておりますし、『観無量寿経』では「欣浄縁」で、「この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満して、不善の聚多し」と、韋提希に語らしめています。したがいまして、この「回疎訳」では、人間の苦悩の現実ということが転じてこそ、はじめて浄土が開かれてくることを、そのような受けとりをしていることを、表現してみました。それは、生きている事実というのは、この人間社会の現実を抜きにしては在り得ないという、あまりにも当然なことを、あらためて思い返させられるということです。そして、「事実が、何を顕していることであるのか」ということを知るのは、自分の経験・知識・才覚によるのでは、逆に、実に難しいことであることを思い知らされます。

 別の言い方で申しますと、自分がどう生きているのかに自信がある、人生が概ね思い通りにいっているという時には、浄土ということもあまり関心が向かないということでもありましょう。自分の思いが通らないことに囲まれていることに愕然とする、そこに至って、はじめて苦悩の現実が、その人の問題となるわけです。しかし、私たちは苦悩の中にあればあるほど、その解決を求めます。そのことが、いよいよ苦悩にとらわれていくことに、気がつきません。自分に解決できるほどのことであるなら、苦悩になってこないはずですし、自分に解決できないからこそ苦悩となっていることも、わからないのです。それほどまでに、私たちは、自分ということに確信をもって生きようとしているわけです。わが身を取り囲んでいる苦悩の現実に気がつき、その現実が何を本もとにしているのかに目が向く時にこそ、自らの内の「現実を生きる願」が動き始めるということになります。そのようなことは、私たちが普段している自分の経験に頼る生き方からは、出てきません。それゆえ、「仏力を以ての故に」と認識されてきたのでありましょう。
 そのような苦悩の現実の中に開かれる、阿弥陀の浄土。だからこそ、親鸞聖人は、「現生不退」をはっきりと見出されたのではないかと思えます。
  「この困難な現実こそが、
   生涯の意義が明らかになる大切な「機」を、
   凡夫であるわが身に賜り見出す根源である。」
ことから、さまざまな人間の出くわす苦悩の現実を、「宝」とされているのではないかと思えます。お経に説かれている「宝」の、現実の私たちの日頃の心に見える相すがた は、苦悩の現実でしかないということです。
 そして、「諸仏」、即ち、「自分の生涯の意義を明らかにしてくる縁となる人」に出遇える時は、自分の欲望を満たさんとして蠢く、私たちが築く人間社会が撒き散らす苦悩の中です。ですから、敢えて申しますならば、私どもが好き好んで「諸仏」と出遇うわけではないということです。私どもの思いからすれば、そんな「諸仏」は、実に「迷惑な人」でありましょう。それゆえに、「諸仏」は、世間から離れた竹林や岩窟に在るのではなく、いわば、汚れ切っている人間社会があればこそ、「「諸仏」がはっきりしてくる」ということです。

 別な言い方をしますならば、「欲望渦巻く、苦悩の深い濁った現実世界」こそが、「諸仏」を顕すはたらきをもっていると、釈尊・七高僧によって「見出された」ということです。この「欲望渦巻く、苦悩の深い濁った現実世界」の意義を、宗祖親鸞は、釈尊・七高僧のおしえの中から実に諦あきらかに受けとられ、自分にとって不都合な現実を、否定・拒否していく自分の思い(理想を求めるということでもありましょう)に固執する限りは、「諸仏」に出遇うことがないと説かれるのです。だからこそそこに、宗祖親鸞の説かれた「現生不退」の在り方が、顕れてくるのだと思います。
 ですから、苦悩の現実を否定したあの世の浄土はあってもいいのでしょうが、私にとりましても、いきいきと現実を生きることができれば、あの世の浄土のことを、今(これは、生きている今、という意味で)問題にすることもありますまい。
 ただ、「いきいきと現実を生きる」という言葉は、非常に危険なニュアンスも含んでいます。なぜなら、自分の思い通りの生活ができれば、そこに、「いきいきと生きる」という満足感が生まれないこともないからです。そのような生活が「七宝の牢獄」である認識は、私たちには出てきません。しかし、そのような自分の思いでの「いきいきと現実を生きる」ということも、自分の「業」をとおして各別に顕れている「現実を生きる願」であり、その思いが否定されているわけではありません。なぜなら、そのような思い(仏教的に申すなら「煩悩」ということでしょう)を否定することは、人間存在を否定することになるからです。しかしお経では、そんな思いを「肯定」しているのでもなく、「転ずる」ことを勧めているわけです。
 そういった意味で、この「いきいきと現実を生きる」という言葉は、誤解を招き、危険でもあります。しかし、それを承知の上で敢えて、回疎訳本文の中では、この言葉を遣いました。

 『阿弥陀経』の現代語訳とか解説書では、浄土荘厳のことが、実に美的に語られています。そういった美的な文章を読みましても、何か、自己の現実と結びつけて考えることはできず、したがって、お経で説かれていることが自分の問題になってこないのです。つまり、お経で説かれていることを、絵画的に固定的にとらえ、はたらきとしての浄土が私に受けとれないのです。そうなってきますと、『阿弥陀経』全体が、呪文化していかざるを得ません。                                    私も真宗大谷派の僧侶ですから、『阿弥陀経』をあげる機会も多く、にもかかわらず、お経が呪文化していくことに、ある種のいらだちを感じていました。そして、「おまえは、何を聞いてきたのか?」という内からの声が、しきりに涌いてきたのです。
 私には、中国語に返り点や振りがなを付けた漢文のであろうが、読み下し文のであろうが、経典に拒否反応があります。その理由は、前舒にも記したのですが、「現代日本語」で説かれていないことによります。「経典への私から接近を阻むこと」が、漢文・読み下し文の表記です。読み下し文は、一般的には、とても「現代日本語」の翻訳と言えません。ごく特殊な日本語です。そして、「ナムアミダブツ」も元来はインドの言葉です。経典などが「現代日本語」に翻訳されない、読誦は呉音とされる読み方でされる(これとて、昨今では四声を無視した日本的発音)、そのようなことを当たり前とされることが、私にはとても不思議でなりません。このような感覚は、私だけのものなのでしょうか。
 私は、中国語の浄土三部経や論・釈そのものを否定しているのではなく、現代において真宗に学ばんとしている者の「テキスト」のその表記が、「非現代日本語である」ことについて、問題提起しているのです。浄土三部経や論・釈に学ぶのについて、原典の言語で学ばなければ適切ではないとは思えません。学ぶ人の遣う言葉、つまり、翻訳されたものでも一向に構わないと思います。そのことの代表的な例を挙げますなら、『往生論註』のことがあります。ヴァスバンドゥが著した『浄土論』(その原典もしくは写本がどこにあるのか?)を、ボーディルチが洛陽で経典の翻訳に従事した時に、『無量寿経優婆提舎願生偈』という題名で訳したということです。この翻訳されたものを本もととして、曇鸞大師は『往生論註』を著しているわけです。

 私は、親鸞聖人がサンスクリット語で『浄土論』を学んでいたとは、とても思えません。親鸞聖人は、九歳の時からの「学びの言語」として中国語があったわけですから、親鸞聖人においては中国語が「学ぶ人の言葉」として適切だったと申せましょう。そういう事実を無視して、「漢文経典」を、いつの時代においても「不可侵の原典」とすることも頷けません。そして、私どもの学ぶ言語・現に遣っている言語が「現代日本語」であるにも係わらず、「親鸞聖人が「中国語経典」に学んだのだから、宗祖の学びに同じくするのなら、我われも、「中国語経典」で学ばなければならぬ」とするのであるならば、真宗でも「難行・苦行」せねばならぬということになります。そして、「原典」主義を通すならば、『浄土論』は、サンスクリット語で学ぶことになります。(もっともそれは、「原典」とされるものが所在不明とのことですから、不能でしょうが。)
 しかし、「読み下し文」は、中国語ではないし、むろん「現代日本語」でもない、ごく特殊な日本語なのです。漢文を「読み下し」て読むこと自体が、一般的なことではないと思います。
 そういった思いから、私は、力量のある大谷派の学生がくしょう (生きることを学ぶ者)に、浄土三部経や論・釈の、日常一般からすれば特殊な用語(中国語訳された仏語)の使用を極力抑えた「現代日本語」での適切な翻訳を、ぜひ、行って欲しいと願うのです。そのことは、真宗大谷派の経典の受けとり方の、浄土宗や時宗のみならず真宗他派との異なりを、明らかにするものとなりましょう。外国語への翻訳も、大切な事業でしょうが、一億人以上が遣っている、感覚できる「現代日本語」への翻訳は、外国語への翻訳に勝るとも劣らない、大事業だと思います。そして、「現代日本語」への翻訳は、外国語への翻訳をより適切にするのではないでしょうか。そのことはまた、「現代日本語」に翻訳されたものに接することを出発として、原典(読み下し文や中国語で表記された経典)とされるものへのアプローチが始まるということに、なるのではないでしょうか。

 前舒でも申しましたが、この「回疎訳」は、「訳」という文字はついていましても、翻訳ではありません。あくまでも、「受けとった南無阿弥陀仏」を根底にして、前舒で記しました「四つの看板」を「聞点」にした、『阿弥陀経』の私なりの受けとりに過ぎないのです。いわば、「肉眼」の意識による「現実相」から、「仏眼」の認識による「浄土相」へ「転ずる」ことをポイントにしているつもりですが、そのように聞けているのかどうかは、自分では判断できません。唯、「信」であるからには、受けとっている内容が、常に批判にさらされる状況にあるのだ、ということは承知しておりまして、この「回疎訳」に絶対性があるなどとは、さらさら思ってもいません。いろいろと批判を受けて変わっていくことが、『回疎えそ訳』の『回疎訳くねくねほんやく』たる所以です。

 『観無量寿経回疎訳』に目を通して頂いた方々から、ご批判や励ましを望外に頂戴いたしました。それらに応えることは、『観無量寿経』の正宗分を、もっとしっかり受けとり学べ、ということになると思えました。そのためには、やはり『阿弥陀経』を学ばなければならないと思い、ここに『阿弥陀経』の「回疎訳」を、試みたわけです。このことは、『観無量寿経回疎訳』の改定第二版が促されるということに、受けとっております。
 長い道のりを、クネクネと、楽しみながら歩みたいと思います。そして、いろいろな方々から、「如是我聞」としての経・論・釈の「現代日本語」の「私訳」が出てくれば、もっと仏教が、真宗が楽しくなるのではないかと、思えてくるのです。

 あらためて、これまでの・これからの・そしていま現在の、教えを伝えて下さった方々、批判して下さった方々、励まして下さった方々に、深く感謝します。

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(奥付)

 

     遠流七八八年(一九九四年・平成六年) 七月二十日
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    釈尊のお説きになった「現実を生きる願の世界」の教え 
         仏説阿弥陀経 回疎訳
                     〔税込定価 二千円〕                      
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          一九九四年 七月二十日 初版発行
          一九九四年 九月三十日 初版第二刷
           著 者  釈 功聴

           発行者  大竹 功
           発行所  仮 立 舎 ® (けりゅうしゃ)

           188-0003 東京都西東京市北原町 1−6−9
                FAX 0424(67)8089
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            この本に対するご意見・ご批判をお寄せ下さい。

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           仮立舎 設立の辞 

 出版社「仮立舎」は、二十世紀末にあって混迷する価値観の根源を、「デカルトの四則」と名指し、それを超克する思想を明らかにせんとする願より生まれた。
 それを満足する思想が、既にあるわけではない。どの程度その願を深めてゆくことができるか、かかる過程をこの「仮立舎」は歩まんとするものである。そして、個人出版社として歩む「仮立舎」は、その歩みを仏教に憑んでゆく。
 但し、学問・知識・教養としての仏教に憑むわけではない。まして、現在を生きて行くことを呪文で解決しようとする仏教や、催事としての仏教にではない。「仮立舎」が仏教と縁を結ぶということは、現代の言語感覚から遠く隔たって文献化した漢文経典を、「現代日本語としての経典」として、新たに翻訳・作製・編纂することをも意味している。具体的な経典の名は、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』『無量寿経優婆提舎願生偈』『無量寿経優婆提舎願生偈 註』を中心としたい。それらの「現代日本語経典」を経て、より明確な「人類の生きる方法を舒説する」ことが、「仮立舎」としての願の内容である。
 もとより、この事業は一人の出版人で完成しうる仕事ではない。「仮立」を引き継ぐ、あるいは展開される多くの方々が生まれることを、切に願うものである。

  遠流七八八年(一九九四年・平成六年)一月十三日
                   仮立舎 代 表   大竹 功
                       補佐人   丹生 重人

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